書評01『寡黙なる巨人』多田富雄著/『とあるひととき』花王プラザ編

『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2022年10月16・23日合併号掲載)

私の前から本、書籍、物語が消えた半年がある。
今から8年前のある日、突然身体に異変をきたし、生命はあったが元の自分に戻れない、仕事どころか日常生活にも支障をきたすような左半身に不具合が残ったのである。その年の春から秋にかけての半年の入院の間は、ただ不具合な自分の身体と向き合うだけの過酷な闘いの日々であり、それまでの楽しみであった読書、そして生業(なりわい)でもある俳優として、毎週のごとく押し寄せてきた新しい物語(台本)も含めて、これら一切の書籍、活字が私の中から消えた。
半年の入院で何とか杖をついて歩けるまではきたが、医師はこの症状の行き着く先のことを告げることはなかった。退院して、そのまま日常生活に放り出された私は社会から置き去りにされ、行先の見えないリハビリを繰り返すだけで不安は募るばかりであったが、そんな中、一冊の本に出会った。免疫学の世界的権威である多田富雄さんが私と同じ病に倒れて(症状は私の比でなく重い)書かれた『寡黙なる巨人』(集英社文庫)である。
私は恐る恐る手にとり、読み進み、休み、読み返すことを繰り返し、再び本というものに出会ったのであった。体験した者にしかわからない後遺症の実態と心情はリアルで事細かく、元に戻ることの先を示唆するものであった。ここにきて私をして新しい私を誕生させてくれたこの本は、萎えてしまっていた私の精神と身体に、まるで生き物のように血を通わせて染み込んできたのである。
これは「受容しなければならない運命」であり、今の再生医学では元に戻ることはない。「私が一歩を踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ」。そして私の中には「得体の知れない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれ変わるものに期待と希望を持った。新しいものよ、早く目覚めよ。(中略)彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているように感じた」
私はこのような言葉にすがり、信じて、元に戻るという考えをスッパリと捨てた。この不具合な身体こそが新しい私なのだ。この決断はそれでもなお生きて行こうとする私には大きな励みとなり未来へと繋がっていった。そしてこの本に共感するだけでなく、以前、詩の朗読や台本に書かれた役を自分のものにしようとした時のように、声に出して毎日少しずつ読んで過ごすところまできたのであった。
あの時期にこの本に出会えなかったら私は今の私ではあるまい。サバイバーとしての心の地図でもあり生きる力を支えてくれたバイブルでもあった。
また、著者の多田さんは能の新作をも書かれていた。芸術としての文学(詩と能楽の創作)が持つ、大切さ美しさをあの過酷な状態の中でも失われていなかったのである。私が俳優以外の今の自分の有りようを確かめるために新しい可能性を求め、挑戦したのは、闘病の中にも人生の輝きを信じて放ったこの本に少しでも追従しようと思ったからであった。
私はあるべき日常に割り込み、徐々にカメラの前にも立つようになった。そして無くしたものと入れ替わるように、本、書籍が寄せる波のように戻ってきた。次第に片方の手だけで本を持ちページをめくることにも慣れてきたが、読む本の傾向は変わり、自分の身体に聴き、情報だけに頼らず勘で選んでいる。それは本が私の身体性と生命みたいなものとの表裏であることを知ったからである。

先日、淡い色の装丁と『とあるひととき』(花王プラザ編/平凡社)の題名に惹かれてこの本を手にした。本は著名な作家さんたちのエッセイアンソロジーであり、作中のそれぞれの「とあるひととき」の日常はいろんな色に彩られている。各編に差し込まれた画(イラストレーション)を含めて、この本は押し付けがましくないのである。
頑張った日々、怠けていた日、泣いた時、笑ったあの日。切り取られた時間は全てが等価であり、その時々の人生を生活を等しく彩る。
色のない世界だと思っていた私の苦しかったあの日常も、「とあるひととき」として切り取った時間は淡く色付いていたのだなと思われ温かいものが胸に溢れた。
大きな手術をして、今は静かに療養している若い友人に穏やかで優しいこの本を送ろうと思う。

【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年4月20日号(4月8日発売予定)で18回目を迎えます。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社、編集部のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。2025年4月から毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致します。ぜひご覧ください。

(*紹介した本からの引用部分は「」になっています)