書評02『世阿弥最後の花』藤沢周著/『東京ヒゴロ』松本大洋著

『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2022年12月11日号掲載)

薄暗闇の中、窓からは人工の灯りが差し込む、ディレクターの声が聞こえる。「カメラ回りました」、私は頷く。「スタート」、恐らくカメラ(ビデオ)の回ったスタジオ内はこの世で最も静かな空間であると思う。都内のスタジオに建てられたレトロな書斎、朝10時、私はただソファに身を沈めている。出演は私一人、モノクロ映像、本編は15分だが朝から撮り続けている。象徴的な老人、光と影、言葉はなく相手役もいない、俳優としてこんな機会は二度とない。ただぼんやりと映されるのでなく、居るだけでもう何かが始まっているような、そんな居住まいをこの作品で出来れば……。そこで撮影とは別に私の内面に景色を抱え込むため、頭に一冊の本を滲ませることを決めた。老い、夢と現(うつつ)、演者、居場所。

〈光とはなんと不思議なものでございましょう。〉〈七十を越えた背中には、まるで感情が表れない。痩せているにもかかわらず、侘しさや不安の色をもつゆとも見せず、ただそこにある、そこに座っている、という風情なのです。〉世阿弥元清、七十二歳。

藤沢周『世阿弥最後の花』(河出書房新社)である。ここに私の老いの行く末の道とこの撮影の肝があるように思ったのだろう、撮影と並行するかの如く、私は意識を小説の中の世阿弥にむけた。〈『目前心後』、目を前に見て、心を後ろに置け〉〈明け暮れの所作においても、自らの目の届かぬ所の動きを心で見ねばならぬ〉。世阿弥の心得をこの身に刻み、カメラの前に居続ける。

撮影はもう夕方に近い。耳を澄ますと、老いて独りの私に遠い幽玄の世界から、何よりも咲く花の美しさもあるが散る美しさもある、との言葉が微かに聴こえて来る。虚と実の境目があやふやになり、何処(いずこ)に向いているのかわからなくなっている自分の老いの行く末と演者としての立ち位置。先ずはこの場で無心になり、これからは自分の心と身体を何かに明け渡すような作業を繰り返し、与えられたその場、その時に集中するのが肝心なのであろう。本と少しは交信できているのだろうか……。カメラは回り続けている、書斎を出て一粒の種を蒔く。スタジオの隅から射す一筋の光、立ち上がると足元から長い影ができ、その後、蒔いた種が私の影と共に百年の時空を超えてマレーシアの森林へと続き、大樹に育っている場面になり持続可能な世界の作品は終わるのである。〈……一生はただ夢のごとし、たれか百年の齢(よわい)を期せん……〉

老翁世阿弥は失意のなか、流された佐渡の地で何を見、想い、どの様に舞ったか。

「カット」、ディレクターの声に私は夢から覚め、役から解放されるが、世阿弥の影がしばらくは私の影と重なり合い、頭から離れることはなかった。小説と撮影が出会い、幸せな併走であったと思う。

著者の世阿弥を書くという覚悟と緊張感が結実したこの作品は、研ぎ澄まされた美しい言葉と和歌を散りばめた一編の詩のようでもあり、その描写は残像として濃淡のある墨絵のごとく残り心を捉える。

この小説には時間をかけ少しずつ読み、一息入れて物語に浸り、本に栞を挿む喜びがあった。

私は団塊の世代である。小学6年生の時に初めて漫画が毎週発売されるようになった。『少年マガジン』『少年サンデー』である。それ以前は貸本屋や月刊『ぼくら』など。あのシリアスな大学時代にも傍らには必ず漫画があった。『ガロ』、 青年誌(私は宮谷一彦が好きだった)などが。

いつになったら漫画、コミックから離れるのかと思っていたが、ここに来てグッとくる物語が現れた。雑誌に連載されていたものが昨年コミックとして1巻目が刊行された、松本大洋『東京ヒゴロ』(小学館)である。

独特の味わいをもつ登場人物のキャラクター、そして拘りのカット割りの素晴らしさと引いた絵の完璧な作画、著者の世界。この秋にやっと2巻目が出た。私の漫画、コミックへのアプローチも、これが最後のものになるのは間違いない。

憧憬、郷愁、悔恨、再生、希望の全てがこのマンガ作品にはある。ともかくも格好良いのである。効率、生産性を声高に叫ぶ今の世に静かにノンと言い、愚直に自分の理想の漫画作品を追い求める編集者の夢が見果てぬものでないことを祈り、この体温のある静止画(漫画)の世界『東京ヒゴロ』を支持するものである。

【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年4月20日号で18回目を迎えました。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。4月から毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致します。ぜひご覧ください。

(*紹介した本からの引用は〈 〉になっています。文章中の時制は掲載当時のものです)