劇団にいながら、つかこうへいさんの芝居を演るようになって2年が経ち、渋谷パルコ劇場にて新作「幕末純情伝」の幕が開いた。幕末に生きた新撰組をつかこうへい氏の独特の解釈で書かれた物語である(後、映画化もされた)。僕は土方歳三の役であった。
初日の幕が開き、緊張感も薄れて、いつものつか芝居の観客に観せるというよりも、観客を巻き込んで劇場が一体化する、笑いと泣きの緩急。いわゆる俳優もノッた状態。
そんなある日、開演前の楽屋で桂小五郎役である東京ヴォードヴィルショーの石井愃一さんが緊張気味に「今日は渥美清さんが観に来てくれる、緊張するわ」と言われた。石井さんは以前渥美さんの付き人をされていたという。楽屋は少し騒ついたが、つか芝居にはその頃の名のある俳優さん達が押し寄せているので、なんのことはなく、私もへえー渥美清さんか、と思いつつそんなことも忘れていつも通りに本番の幕が開いた。
劇の半ば過ぎ、舞台上の私は桂小五郎役の石井さんが舞台袖で出番を待っているのを確認。私、土方が声をかけての桂小五郎の登場である。そこで私は大声をあげた「さくら!」
……と、言っている私は、頭の中が一瞬真っ白になった。「かつら!」を「さくら!」と言ったのだ。さくらは映画「男はつらいよ」の渥美さん演じる寅さんの妹の名前だ。私はうろたえたが石井さんは堂々と桂小五郎で舞台上に登場して、台詞を言っている。間違いに気づいていないのか⁉︎ 客席も揺るがない、劇に集中している。まさか、私が「さくら」と言ったとは思っていないのか、誰も。幕が降りて、芝居が終わっても誰もそのことは言わない、それを私だけが今も覚えている。私の膨大な台詞量の中に、渥美清さんが無意識に潜み忍び込んでいたのだろう。あの時から多くの舞台も演ったが、私は一度も虚(芝居)の自分を信じていない。
渥美清さんが客席で「エッ、まさか」と思ってくれていたら、嬉しいなと思う。テレビでは何回も「男はつらいよ」は放送されている。時にはシンミリしたりすることはあるが、何時もあの日の舞台を思い出す。誰かに話したくて初めて此処に書いた。
平成の始まった年だから30年以上が経った、時効であろう……。
渥美清さんには一度も会ったことは無い。