『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2023年5月21日号掲載)
私がその人と会ったのは江戸時代の大坂、橋のたもと、真冬であったが、辺りは淡い陽射しに包まれていた。撮影現場、ドラマの原作者と役の中の人としてである。作家・髙田郁さん。
あの日から随分と歳月が経った。そして今、刊行された髙田さんのエッセイ『晴れときどき涙雨』(ハルキ文庫)を手に取り、ゆっくりとあの日をたぐり寄せるかのように読む。
温かい心の機微が著書各編のエピソードの芯を貫いている。著者が出逢う人と相互に心を開いていく世界の描写には、私たちが今、どうしても捨ててはいけない感情が呼び起こされる。
〈哀しみと苦さと滑稽とが胸に込み上げて、私は涙を零しながら笑った〉
著者の身の回りにおきたリアルなこと(行き交った友情、家族への想い、体験された震災の現実、幼き日への回顧、市井の人たちとの出会いと別れ、夢を追いかけた青春の日々)、その時々の記憶はいつの時代も漂白されることのない人間関係が色づき鮮やかである。
ただ揺さぶられた心情を、感じたことを、著者が持つ独自の目線を持って書かれた各編はしみじみとして、まるで短編の物語を読んでいるようで、何度も読み返してしまう。
私は病の後遺症のせいなのか、いっとき食に変化があらわれた。心配した妻が著者の小説『みをつくし料理帖』の〈何かを美味しい、と思えれば生きることができる〉を思い、「今日は『みをつくし料理帖』からの……」等と言って一品を作ってくれたりして、私も徐々に元通りの食生活に戻っていったこともある。作品が現実とクロスして生活の中を行き交ったのだった。
人には歓びもあれば悲しみもあり、他人には計り知れない労苦があるのは、みんな当然のように知っている。しかし、昨今は大きな同じ感情の塊にのみ込まれ、一人一人の個人に対する温かくもひたむきな対応と想像力が欠けているのではと。そこのところの感情が痩せてしまうと駄目なのだとこのエッセイを読み、つくづく思った。
人間を突き動かすものは何だろう……。髙田さんがいろいろな現実の暮らしのなかで懸命に生きている人たちの息づかいに合わせて一緒になって歩き続けてこられた18年間の出来事をまとめ記された記憶の一冊。
〈あなたが幸せなら、遠くからそっと。/悲しみや苦しみに押し潰されそうならば、その傍らに。〉著書が語りかけている。
俳優という生業は、劇場の舞台に立ち、カメラの前で何者かになり虚の世界を生き、そして自分自身の日常(実生活)を送る。この二つの世界の呼吸の仕方は当然違うであろう。しかし長くその生活が続くと、二極化された現実は溶け合い、自然に身体は馴染んでいくものと思う。だが身体は反応しても、頭は、精神はどうだろうか、その対応にはかなりのタフさが必要だ。
多忙であろう松重豊が「十牛図」に気持ちが傾いていたのに驚いた。シンプルな生き方の道筋の中にこそ平面的でない深さがあり、俳優として必要なのではと足を止めた彼は、そこに自分のパーソナルな世界を希求したのだろう。
著書『あなたの牛を追いなさい』(桝野俊明、松重豊共著/毎日新聞出版)はその精神世界を言語化したものだとわかる。そしてひたすらに枡野氏の話を聞き、教えてもらおうとする真摯な姿勢が対談形式としての説得力をもち、私たち読み人をこの世界に導き易くしてくれている。
単一的な芝居、人生から何処かに行こうとしている彼の姿がこの著書に垣間見える。自分の立ち位置を少しずつ(書くことやラジオなどを含め)ズラす作業を繰り返しながら、演じるという際限なく広がる世界から、今度は奥のある深いところに行こうとしているのだなと思った。
60歳になったという。彼がこれからの新しい役者というものの行き先を切り拓いてくれるような気がして、頼もしい。
著書を読みながら、映画の撮影で、まだ夜の暗闇が少し残る明け方の時間、大きな荷を背負って真冬の月山(がっさん)を登る著者の顔が思い出された。まるで深い山のふところに誘われるように霧の中に消えていった。
あの時はもう牛を追っていたのだろうか。
「シオミサンは少し頭でいろいろ考えすぎですよ、頭で……」と笑われるかもしれないが、それも良しと思っている。
【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年4月20日号で18回目を迎えました。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。4月から毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致しています。ぜひご覧ください。
(*紹介した本からの引用は〈 〉になっています)