『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2025年3月9日号掲載)
星野源著『いのちの車窓から2』(KADOKAWA)。
私が病のことを書こうとしたのは星野さんのアドバイスが大きかった。
あるドラマで彼と親子の役を演った。その時、私は倒れてから初めてダイアローグ(会話劇)としての普通の家族のやりとりができた。病の後遺症に苦しんでいた私は、その居間で過ごした時間のあまりの居心地の良さに、この疑似家族でカットがかからずにこのまま虚の世界に生きていたいと思ったことを思い出す。
彼と私には病による共通の暗闇を抱えていたこともあり、彼の書くことへの誘いは切実なものとなり私の胸に落ちた。
星野源、音楽家そして俳優として虚構の世界で真価を問う生業と普通の実生活の二極を生きる日常。熱狂と静寂、不安と安寧、怒りと優しさ、そして溢れる情感。著書『いのちの車窓から2』には、生きることへの揺れ動く心情とステージに向かう覚悟と悦びが余すことなく書かれている。自分の周りの人たちに、そして表現に対する彼の誠実な姿勢は、この過酷な社会を生きている私たちへの一人の表現者からの大切な伝言なのだと受け取った。
ドーム公演で何万人を相手に歌を届けること、昼も夜もなく曲を作る、演者としてカメラの前に立つ、と同時に自宅のソファで自分の内面との対話を静かに繰り返す、その落差。
〈余計なスリルはいらない。なぜなら私の仕事は働いているだけでスリル満点だからだ。〉と言う一方で、ステージ(運命)が変わるたびに使うエネルギーについては〈その死に物狂いには限界があった。やりすぎると本当に死んでしまうことがわかった〉。何気なく、やわらかく呟く一文は壮絶でもある。面白いことは面が白くなるほどに怖いことなのだと彼は知っているのだろう。そして自分の懸命な創作表現に光があたることを楽しみながら、答えの出ないあいまいな心情にもより深く思考し、自分は誰なのかを問い続けている。
星野さんの書く行為は、私には彼の内面に交差する虚構と実像が混じり合ったグレーゾーンのところを書くことで自分の生きている軌跡を整理し埋めているようにも思える。著者が「いのちの車窓」から眺めた心象の全景には生(ナマ)の星野源の匂いが立ちこめる。それを思いきり嗅ぎながら読んでいていると、彼のあまりの真っ直ぐな心持ちがジワジワと伝わってくる。私の心には温かい光が灯り〈今自分は大切な時間を過ごしているという感覚〉が宿るのであった。
星野源は〈どう思われるかではなく、私は一体、どうありたいのか。その問いだけがあった。〉〈そんな当たり前の今に、私は立っている〉と著書を結んでいる。私はその言葉をかみしめている。
『スバらしきバス』平田俊子著(ちくま文庫)、〈バスは生き物のにおいをさせながら近づいてくるのでたびたびわたしは乗りまちがう〉、詩人平田さん運転のバスの扉が開く。やっぱりこんな人がいるんだ。楽しい、嬉しい。
私もバスが好きだ。病に倒れ、ようやくバスに乗れるようになるまでは一年かかった。東京駅の近くに住んでいたので、自宅マンション前のバス停から晴海埠頭行きと東京ビッグサイト行きの二系統のバス路線があり、その終点である晴海客船ターミナル、またビッグサイトに行き(その頃はどちらも館内はガランとしていた)、そこで歩きのリハビリを繰り返していた。
私は著者のようにバスの乗降客には目がいかないが、バスに乗り車内を見渡し運転席から左列数えて三番目の席に座ると決めている。その席での窓枠の加減で車窓に流れる街の景色を見るのが好きだからだ。釣り人や子供たちが遊ぶ長閑な空き地であった晴海埠頭は、オリンピックの選手村になり、マンション群になったという。あの路線はまだあるのだろうか。私はオリンピックの前に東京を離れたのでわからない。
今も越してきた横浜の家近くのバス乗り場から山下埠頭へのバスが出ていて、元町、中華街などへ行っている(三十分くらい)。
帰り道、横浜は坂が多いので景色が抜けた時は空があかね色に染まり、遠くに丹沢山系に落ちる夕日が美しく、車窓に映る景色に浸る。バスに乗っている人たちみんながその夕景に息を呑んでいる。そんなスバらしいバスのひとときに出会うと私は至極幸せな気持ちになるのである。
【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して今年で4年目を迎えます。広く皆様にお読み頂きたく、2025年4月から毎日新聞出版社のご厚意によって過去に掲載した原稿を転載させて頂いています。毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致していますので、ぜひご覧ください。
(*紹介した本からの引用は〈 〉になっています)