三谷昇さんのこと、追想の記として。

三谷昇さんが亡くなられた……。
私の部屋の本棚には、あなたが出演された映画(「おろしや国酔夢譚」)の海外ロケの時に、お土産で頂いたドン・キホーテの木彫りの置物、そして壁には、私の結婚祝いに描いてくださった絵がかかっています。
優しくて温かかった、明るくて、激しい人でもあった。そして生涯、演劇への愛のつまった筋の通った人、演劇の先輩であった。

1980年代に入り、新宿の西口はその頃の酷い地上げで荒れ地であったが、その中に、成子坂の手前を右に折れ、少し奥まったところにあった鉄工所の跡地に、私たちのアトリエ、稽古場ができた。四方の壁全面が白黒の市松模様に塗られ包まれた、念願の劇団の劇場を兼ねたアトリエだった。
その時の先輩たち、芥川比呂志、中村伸郎、南美江、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、文野朋子、そして……三谷昇さん。もう、みんな居なくなってしまった……。若い私の演劇の何もかもが詰まった、熱気にあふれた聖地でもあった。
温かくも厳しく、泣き、笑い、シリアスをユーモアを、一つの作品に皆で立ちかうこと、同じベクトルを信じることを教えてくださった人たち。そこにはいつも未熟な私を包み込み、若かった私たち俳優に「仲間じゃないか!」と言って叱咤激励してくださった三谷さんがいらした。三谷さん、新宿は高層ビルが建ち並び、もうあの周辺も変わってしまって跡形もありませんが、今、あなたのことは消え去ったアトリエと共に、懐かしさと大切な残像として私の胸を締めつけます。
あちらでは、思い切ってお芝居の出来る人たち(別役実さんも)が、あなたを待っていらっしゃると思います、愉しんでくださいね三谷さん、お疲れ様でした、そして有難うございました……。

2023年ヨコハマ点景

1月の半ばに一つ歳を重ねました。
毎年この日は家で静かにしているのだが、今年は街に出て馬車道にあるS園のワンタン麺が無性に食べたくて、家族で出かけました。
昔と少しも変わらない店内。細麺で少し硬め、まず思い切りズズーと口いっぱいに頬張り食べる、細かく刻んだネギのスープをコクリと飲む、次は麺にシナチクを絡めて歯ごたえを堪能して、合間にワンタン(エビ)を単独で、それの繰り返し、美味いな、やっぱり。
その後は少し歩いて、馬車道十番館でケーキとコーヒー。いつもはシュークリームの類なのだが、誕生日に相応しい(と自分で思っている)ケーキにする。高い天井、赤いソファ、小ぶりのテーブル、清潔な店員さん、広い窓ガラス越しの景色もまっ青な空と相まって素敵な誕生日でした。ヨコハマの街でも風情、面影が全然変わらない、この関内馬車道と伊勢佐木町辺りが好きだなと。

今年の初めは正月二日、私の住んでいる住宅街はいつもは静かなのだが、箱根駅伝の2区の難所G坂辺りが近くにあり、ランナー(往路)の応援で人が出ているので、その時間を避けて旧東海道沿いのS地蔵尊に行った。小ぢんまりとした境内には地元の老舗菓子屋の出店が出ていて、陽当たりの良いベンチに座り「花びら餅(白あんにごぼう入り)」を食べ、遠くに見える丹沢山系と富士が(霞んではいたが)見える景色を堪能して、広重の東海道五十三次、戸塚の画を重ねて、江戸期の旅の人たちもこの辺りで一服か……、と思いめぐらした初詣だった。

「やったぜ!じいちゃん」全国放送です!

2022年日本民間放送連盟賞
テレビエンターテインメント最優秀賞受賞・テレビ準グランプリ受賞作品 
「やったぜ!じいちゃん」  
BS-TBS「ドキュメントJ」にて11月27日(日)午前10時〜11時放送

生きる勇気と励まし、愛、全てがある、必見!

生まれてすぐに脳性麻痺により身体に障害が残り、医師には20歳までの命と宣告されたが、今74歳。
そこにあるのは家族の愛。50年前に放送された映像を交えて生の時間を、時代を切り取る。
一人の障害を持つ者と共に生きた家族の記録。生活の断片、そしてその日常の下で生き生きとした生命の輝きがここにある。そこのところを制作スタッフが温かい目線と距離感で包みこんだドキュメントが素晴らしい。是非に見て頂きたい、混沌とする現代を生きる私たちには必見のドキュメント番組である。ナレーションを担当しました。

神保町が少し懐かしい…。

横浜に越してきて一年が経った。
神保町のすずらん通りの揚子江菜館で富士山(冷やし中華)を食べるのが毎年ツマとの恒例であったのだが、今年の夏はついに食べることができなかった。少し寂しい。食後はすずらん通りをゆっくり散策して古書店を覗き、文房堂にて額装を頼んだり、三省堂本店まで、楽しんでいた。その三省堂本店は一時閉店して再開発されるという。
私の名前は「三省」である。
子供の頃からあだ名は「サンセイドウ」であり、中学時代の担任の先生までも私をそのあだ名で呼んでいたくらいだ。大学時代に東京に来て、友人と訪れた神保町で書店まわりをしたが、すずらん通りの入り口にある三省堂書店本店の前に立ち、入店した時の感覚は三省さんが三省堂へと、一人で少し緊張した(笑)。その後上京して50年近く経ち、三省堂書店、揚子江菜館、スイートポーヅ、柏水堂、ランチョン、文房堂、古書店、ミロンガによく通った。
昨年初めて書いたエッセイ『歌うように伝えたい』が6月に刊行された。ツマと神保町に行き三省堂に入ると私の本が置かれていたのには感慨深いものがあり、忘れない。記念に一冊購入して、やはり富士山を食べて、喫茶店ミロンガで一息いれた、去年のあの夏の日は忘れない。

横浜に来て、懐かしむ東京は神保町、歩いて散歩がてらに行っていた人形町、日本橋界隈、住んでいた佃で大川(墨田川)の対岸に落ちる夕焼け。

白内障2〜横浜港

午前中に最後の検査を終えて、病院の最上階にあるレストランラウンジに行った。少しRがかかった全面ガラスの窓からは横浜港の全景が眺望できた。
その景色を眺めていたら、私は50年以上も前にヨーロッパをバックパッカーとして旅をしていて、シベリア鉄道でナホトカから船に乗った帰国の途の最後に横浜港が現れた、あの景色を思い出した。
一般的な社会のレールを外れていた私はその時23歳になっていたが、帰国したら落ち着いて何かをやらなければと、また、自分は何でもできる…とも思いながら船のデッキに立ち、この横浜港に呑み込まれるように帰ってきた、あまりに若く、そして苦い旅の終わりの景色であった。

あれから50年、私は老い、そして白内障の手術を終え、あの日と同じ横浜港を見ている。あの日、たった一人で船上から眺めていた景色は寂しくもあったが、今は私を支えてくださる人たちもいて、残された人生を思い、それ故の身体のメンテナンスなのだ、と思う気持ちが私を心強くする。

薄曇り空と濃い青の海を一文字に区切るかのような横浜港に少しばかり射す陽が綺麗で、一瞬、この病院が港に停泊する船にも思えて、胸にくるものがあった。

私はこの景色を「新しくなった眼」に刻みつけようといつまでもいつまでも、眺めていた。

私の今夏の花火、白内障手術

厳しい暑さが続きますが、今夏は幸い自宅での仕事の作業が多いので、思いきって七月、七夕の日、十年間ずっと施術しなければと思っていた白内障の手術をした。

一か月前に血液検査、一週間前にコロナのPCR検査をして、まずは左眼、一泊二日である。横浜の総合病院にタクシーで朝9時に入院、病院内は感染症対策で、連れ合いは入院棟には入れずに、直ぐに一人で病室へ。病衣に着替えて、点滴を受ける。

午後1時に手術室へ、手術室は広くて最新で幾つも自動扉を通り、その度に、名前とどちらの眼か、を本人確認する。看護師さんが押す車椅子なのでスピード感があり、不思議な世界に入る、気持の昂りすらも感じる。
施術台はゆったりとした椅子であり、周りは最新の機材に囲まれている。担当の女医先生の挨拶があり、椅子を一番楽な体勢にセットして、点眼麻酔。私は眼に麻酔してメスが眼になんてことをイメージしていて、やはり怖いなと思っていたが、そんなアナログなことはなかった。

なにやら顔にテープが貼られて顔の動きを止めて、眼だけが露出しているようだ。
もう一度点眼麻酔をされると、眼には、まるで花火のような光がただ当たる。その中に黒い点が三つ無作為に動いている。「黒い点の動きを追わないで、漠然と光を見ててください」の声がかかる。ジッと見ていると、まるで万華鏡を回して見ているようだ…と思っていると、担当医の先生の声が聞こえてくる「Sさんの迎えの車椅子をお願いします」と、施術は終わったということだ。それから眼に水を流されてたようで、目を眼帯で顔半分くらい覆われて終わった。うーん施術台に座って15分経ったくらいの時間であったように思う。

映画とかドラマで手術室のシーンはよく見る。全身麻酔で施術される患者さんはオペの様子はわからないだろうが、眼の施術だったせいかわからないけど、私の想像よりも随分と手術室は綺麗で広く、患者に安心感とリラックスさせる設備になっていた。視覚的なことも患者にとっては重要なのだと思う。実際私の血圧は施術台に座ってから下りるまで正常に安定していた。

しかし、以前から白内障施術の間はあんな花火のような光の洪水の中で行われていたのだろうか、凄い発想だなと。

病室に戻ると1時間、安静にベッドに横になって過ごし、これまでだと家族が側に居るのだろうけれど、入院棟はともかく患者のみで、付き添いの人は一人も居なかった。何もかもを患者一人でやるのである。重病患者の場合はどうなっているのだろうか。感染症の予防である、この二年間はこのような体制なのであろう。看護師さんの数も少なくなっているとのこと、コロナ禍で総合病院は大変だったのだと思われた。

その日は一泊して翌朝、術後の検査をして眼帯を外して、午後帰宅した。片方の眼を眼帯で塞ぐのは、やはりストレスがかかり、病棟では歩くのに注意が必要だった。
二週間の期間を空けて、今度はもう片方の眼を同じ要領で手術する。
七月は今年は白内障の手術で全てである。

「本格的な老い」を前にして、これからは景色を眺めたり、本を読んだりするのにストレスがなく、クリアーな目の状態で生活していきたいが為であり、この時期が良い決断だったと思っている。

ラジオドラマ『あの日々たちよ〜詩劇としての』聴き逃し配信中!

私の書いた初めての脚本『あの日々たちよ〜詩劇としての』の放送も先日土曜(6月11日)NHK- FMシアターにて放送されました。お聴き頂いた人たち本当に有難うございました。

物語は、私の個人的な実体験を書いていると思われるかもしれませんが、当然、この脚本「あの日々たちよ」はフィクションです。私の頭の中で演劇というものを軸にして、現実と非現実の夢を、50年という時空を行き来して交差する「マジック・リアリズム」として書ければ良いなと念じ、拙いながらも作品として書き上げたものです。

西田敏行様を始め、全ての俳優の方の演技が素晴らしくて、私は放送を聴いていて、自分の書いたものがこんなにも生きた物語として立ち上がってきたことに驚きと悦びに包まれました。演者の方、音楽、構成のスタッフの人たちには感謝しかありません。

演劇という言葉が色んな職業に置き換えられても、それぞれの「あの日々たち」が成立する、普遍性を持っているものとして、信じて。

6月18日(土)までNHKのサイトとアプリらじる☆らじるで、「聴き逃し」配信中ですので、是非に聴いてくださいませ!NHK-FMシアターです。

ドキュメンタリー番組「やったぜ!じいちゃん」のナレーション

名古屋のCBCテレビで放送されるドキュメンタリー番組「やったぜ!じいちゃん」のナレーションを担当することになり、先日私は人間の命の在り様の映像を前にして、マイクに向かい静かに言葉を発し続けた。

名古屋にある制作会社の方の丁寧な心の籠ったオファーであり、私は以前の声ではないし、集中力の持続にも不安があったが、この人たちと一緒にこのドキュメントの制作に関わりたいと思った。

生まれて直ぐに脳性麻痺と診断され、20歳までは生きられないと宣言された人が74歳の今日まで、力いっぱい生きてこられた、それが常に家族と共にあることを追った人間ドキュメントである。

私は彼と同い年74歳である。ナレーションをしながら、生きるということは何なんだ、そしてこの彼と家族の愛おしい世界を観ながら、これから残された人生の一日一日を大切に、生きなければと教えられた。私たちの人生はまだまだ続くのである。

精一杯のナレーション作業であったが、そのもう一つ先のギリギリ、スレスレの試みでやらないとこの映像には対峙できないと思い、緊張したが、スタッフの皆さんのおかげで何とか拙いながらも乗りきれたと思う。帰りのタクシーの中では、清々しくも尊い時間が過ごせた思い、この歳になって、この様な仕事ができたことが嬉しく感謝の一日であった。

先ずは名古屋、中京圏の放送であるが全国の多くの皆さんにも観て欲しい、触れて欲しい、ある市井の人のリアルで温かいドキュメンタリー番組である。

2022年日本民間放送連盟賞テレビエンターテインメント部門最優秀賞を受賞致しました

*全国放送予定; TBSテレビ 2023年1月22日(日)16時〜16時54分放送

SDGsミニドラマ「種をまく」が放送されます

NHK SDGsミニドラマ「種をまく Planting a Seed」が放送されることになりました。
2分間の静かな時間を、ぜひあじわってみてください。

NHK総合
5月20日(金)午後23時47分〜
5月22日(日)午前5時12分〜/午前11時17分〜
6月17日(金)午後23時47分〜
6月19日(日)午前5時12分〜/午前11時17分〜

*予定が変更になる場合もございます

NHK SDGs作品「種をまく」を撮影した

映画のことを話そう。

横浜の戸部の街の一画に「シネマノヴェチェント」という映写技師さんが運営されているミニシアターがある。
そこで企画された映画「12人の優しい日本人」の上映と監督の中原俊さんと私の二人トークイベントが先日催された。
今、住んでいる横浜の自宅から車で20分の所で私にはストレスにならない距離である。「12人の優しい日本人」は1991年公開であり、監督の中原さんに逢うのも30年ぶりで撮影時には話せなかったことも落ち着いて話ができると思い、映画館の支配人の心意気も感じて出かけた。
上映後も残ってくださったお客様も含めて、30年前の映画のことを、私が知っていること、知らなかったことを監督と話せたのは幸せな時間であった。
私が演劇から映画に舵を切った作品なのでその原点に立ち戻り、ここで監督と話しながら、映画全体の中身のことだけでなく、私の個人的に思い出深いこの映画スタッフの人たち、もう亡くなられた人、また年を経て、老い故にこの場に来られない愛おしい人のことをしきりに思い出していた。
心にとどまり、記憶として残っている人や物事はこの映画全体のことではなく、やはり個のものであった。全体を語るのでなく個のことを語るのが一番自分に正直なのだと思った。

場所が横浜のディープで不便な所なのに、懇意にしている出版関係の友人が二人連れで来てくださっていた。このイベントに私が出ることは、私のホームページをチェックしていないとわからないので、ホームページを見てくれて来てくださったことが本当に有り難いことであった。
そしてまた、ある人は映画と関係なく、私の書いたエッセイ『歌うように伝えたい』の本へのサインを望まれ、それが1年前の初刷りの刊行本だったので(現在は6刷)私は驚き、今日は映画のことだけでなくステキな二つの出会いが確認できて、この出逢いも含めた全てが「31年経った私の12人の優しい日本人」という映画が着地した豊かさであり、長い時間を経たこの映画の大切な、幸福な広がりがあったと感じ入った一日であった。