猫がウチにやって来た。君といつまでも!

地域猫のクロネコ君(ウチでは黒ゴマと名付けている)が庭先に顔を出すようになって半年になる。その間、母屋に住む義妹が決まった時間に毎日のように餌(煮干しの頭)をあげていると次第に懐いてきたようであり、その動向が可愛くて、妻も念願だったのでウチ猫を飼うことに決めたのであった。
義妹と妻は地域で信頼のある保護猫譲渡カフェ(カフェ料金を払い譲渡可能な猫たちと決められた時間を過ごす、予約制)に通い、その折、すぐに二人に馴染んでくれた猫(生後7ヶ月オス)に決めた。
ついに猫がウチにやって来た。それから1週間はその家に適しているかのトライアルが始まる。初めの日は育ててくれたIさんにケージの中で過ごした方がいいと言われていたが、夕方になりニャア、ニャアと鳴き、出してくれ!と言わんばかりなのでケージから出してやった。
最初は部屋の隅の椅子の暗がりの中でうずくまっていたが、そのまま放っておいて見ていると、キョロキョロしながら歩いてきて二人の中に紛れるように懐いてスリスリしてきた。で、もうケージの中でなくその場で出した食事をカリカリと食べ出した。その動画をIさんに送ったら、すごく安心したとの返信があり、何とかトライアルも大丈夫そうなので、名前を付けることにした。義妹の提案でウズラ豆模様の猫なのでウズラ豆を採用。
いよいよ我が家にネコ天使、ウズラがやってきた。
そして黒ゴマ君は……。

うずら豆

うずら豆

うずら豆

うずら豆

うずら豆

つづく

隔月連載で執筆している週刊誌『サンデー毎日』のエッセイ書評「遠回りの読書」7月4日発売(7月16日号)にてウズラ記を書きました。
是非に読んでくださいませ。

「あまちゃん」の頃を思う。

NHKの朝ドラ「あまちゃん」は2013年4月放送開始である。
それに先立ち、私は「琥珀の勉さん」の中の人として、前年、2012年の10月後半に岩手県久慈市(ドラマの北三陸市)のロケ現場に合流した。
丁度その時期、出演した北野武監督の映画「アウトレイジ・ビヨンド」が全国で封切りされたのを覚えている。
「あまちゃん」は宮藤官九郎さんの圧倒的な脚本、スタッフの集中力、素敵な俳優の仲間たちとの一体感があり、参加する一人ひとりの作品へのアプローチとテンションの純度も高くて、みんなのベクトルがひとつになった、気持ちの良い幸福な現場であり作品であった。
この年のロケ撮影から翌年8月のクランクアップまでの想い出は、琥珀に閉じ込められたかのように残っている。
今、10年ぶりに琥珀の中のあの記憶のカケラを覗いてみたいと思っている。「あまちゃん」の視聴者と共に。

春と一緒に

お向かいの家の木になった夏みかんをいただきジャムにする。義妹がそれをクレープシュゼットにしてくれて食す。朝のパンにも美味しい。最近、彼女は草木染めをしていて、去年から栗、ドングリ、山茶花などでシャツ、パンツを染めている。
近くの商店街の魚屋さんと肉屋さんが充実している。月に一度、内科と歯医者に出る以外は殆ど街には出なくなった。昼前にはノラ猫の黒ゴマ(ウチで勝手に名付けている)がフラリと訪ねてくる。なかなか気を許してくれないが庭作業をじっと眺めているそうだ。春になれば、うちの庭の山椒の木に花がつき、また年に一度の花山椒鍋にして食べる時がくる。少しずつ暖かくなり、家族で静かに気持ちの良い日々を送っている。

NHK朝ドラ「あまちゃん」が、4月3日(月)から10年ぶりに再放送される。楽しみである。琥珀の勉さんの中の私。おそらく放映と同時に撮影のことも懐かしく思い出すだろう。
NHKBSプレミアムで、月曜から土曜日の午前7時15分〜30分に全話放送です。
10年か…。撮影場所であった、久慈市の喫茶店モカのマスターに連絡してみようと思う。

三谷昇さんのこと、追想の記として。

三谷昇さんが亡くなられた……。
私の部屋の本棚には、あなたが出演された映画(「おろしや国酔夢譚」)の海外ロケの時に、お土産で頂いたドン・キホーテの木彫りの置物、そして壁には、私の結婚祝いに描いてくださった絵がかかっています。
優しくて温かかった、明るくて、激しい人でもあった。そして生涯、演劇への愛のつまった筋の通った人、演劇の先輩であった。

1980年代に入り、新宿の西口はその頃の酷い地上げで荒れ地であったが、その中に、成子坂の手前を右に折れ、少し奥まったところにあった鉄工所の跡地に、私たちのアトリエ、稽古場ができた。四方の壁全面が白黒の市松模様に塗られ包まれた、念願の劇団の劇場を兼ねたアトリエだった。
その時の先輩たち、芥川比呂志、中村伸郎、南美江、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、文野朋子、そして……三谷昇さん。もう、みんな居なくなってしまった……。若い私の演劇の何もかもが詰まった、熱気にあふれた聖地でもあった。
温かくも厳しく、泣き、笑い、シリアスをユーモアを、一つの作品に皆で立ちかうこと、同じベクトルを信じることを教えてくださった人たち。そこにはいつも未熟な私を包み込み、若かった私たち俳優に「仲間じゃないか!」と言って叱咤激励してくださった三谷さんがいらした。三谷さん、新宿は高層ビルが建ち並び、もうあの周辺も変わってしまって跡形もありませんが、今、あなたのことは消え去ったアトリエと共に、懐かしさと大切な残像として私の胸を締めつけます。
あちらでは、思い切ってお芝居の出来る人たち(別役実さんも)が、あなたを待っていらっしゃると思います、愉しんでくださいね三谷さん、お疲れ様でした、そして有難うございました……。

2023年ヨコハマ点景

1月の半ばに一つ歳を重ねました。
毎年この日は家で静かにしているのだが、今年は街に出て馬車道にあるS園のワンタン麺が無性に食べたくて、家族で出かけました。
昔と少しも変わらない店内。細麺で少し硬め、まず思い切りズズーと口いっぱいに頬張り食べる、細かく刻んだネギのスープをコクリと飲む、次は麺にシナチクを絡めて歯ごたえを堪能して、合間にワンタン(エビ)を単独で、それの繰り返し、美味いな、やっぱり。
その後は少し歩いて、馬車道十番館でケーキとコーヒー。いつもはシュークリームの類なのだが、誕生日に相応しい(と自分で思っている)ケーキにする。高い天井、赤いソファ、小ぶりのテーブル、清潔な店員さん、広い窓ガラス越しの景色もまっ青な空と相まって素敵な誕生日でした。ヨコハマの街でも風情、面影が全然変わらない、この関内馬車道と伊勢佐木町辺りが好きだなと。

今年の初めは正月二日、私の住んでいる住宅街はいつもは静かなのだが、箱根駅伝の2区の難所が近くにあり、ランナー(往路)の応援で人が出ているので、その時間を避けて初詣に行った。小ぢんまりとした境内には地元の老舗菓子屋の出店が出ていて、陽当たりの良いベンチに座り「花びら餅(白あんにごぼう入り)」を食べ、遠くに見える丹沢山系と富士が(霞んではいたが)見える景色を堪能して、広重の東海道五十三次、戸塚の画を重ねて、江戸期の旅の人たちもこの辺りで一服か……、と思いめぐらした初詣だった。

「やったぜ!じいちゃん」全国放送です!

2022年日本民間放送連盟賞
テレビエンターテインメント最優秀賞受賞・テレビ準グランプリ受賞作品 
「やったぜ!じいちゃん」  
BS-TBS「ドキュメントJ」にて11月27日(日)午前10時〜11時放送

生きる勇気と励まし、愛、全てがある、必見!

生まれてすぐに脳性麻痺により身体に障害が残り、医師には20歳までの命と宣告されたが、今74歳。
そこにあるのは家族の愛。50年前に放送された映像を交えて生の時間を、時代を切り取る。
一人の障害を持つ者と共に生きた家族の記録。生活の断片、そしてその日常の下で生き生きとした生命の輝きがここにある。そこのところを制作スタッフが温かい目線と距離感で包みこんだドキュメントが素晴らしい。是非に見て頂きたい、混沌とする現代を生きる私たちには必見のドキュメント番組である。ナレーションを担当しました。

神保町が少し懐かしい…。

横浜に越してきて一年が経った。
神保町のすずらん通りの揚子江菜館で富士山(冷やし中華)を食べるのが毎年ツマとの恒例であったのだが、今年の夏はついに食べることができなかった。少し寂しい。食後はすずらん通りをゆっくり散策して古書店を覗き、文房堂にて額装を頼んだり、三省堂本店まで、楽しんでいた。その三省堂本店は一時閉店して再開発されるという。
私の名前は「三省」である。
子供の頃からあだ名は「サンセイドウ」であり、中学時代の担任の先生までも私をそのあだ名で呼んでいたくらいだ。大学時代に東京に来て、友人と訪れた神保町で書店まわりをしたが、すずらん通りの入り口にある三省堂書店本店の前に立ち、入店した時の感覚は三省さんが三省堂へと、一人で少し緊張した(笑)。その後上京して50年近く経ち、三省堂書店、揚子江菜館、スイートポーヅ、柏水堂、ランチョン、文房堂、古書店、ミロンガによく通った。
昨年初めて書いたエッセイ『歌うように伝えたい』が6月に刊行された。ツマと神保町に行き三省堂に入ると私の本が置かれていたのには感慨深いものがあり、忘れない。記念に一冊購入して、やはり富士山を食べて、喫茶店ミロンガで一息いれた、去年のあの夏の日は忘れない。

横浜に来て、懐かしむ東京は神保町、歩いて散歩がてらに行っていた人形町、日本橋界隈、住んでいた佃で大川(墨田川)の対岸に落ちる夕焼け。

白内障2〜横浜港

午前中に最後の検査を終えて、病院の最上階にあるレストランラウンジに行った。少しRがかかった全面ガラスの窓からは横浜港の全景が眺望できた。
その景色を眺めていたら、私は50年以上も前にヨーロッパをバックパッカーとして旅をしていて、シベリア鉄道でナホトカから船に乗った帰国の途の最後に横浜港が現れた、あの景色を思い出した。
一般的な社会のレールを外れていた私はその時23歳になっていたが、帰国したら落ち着いて何かをやらなければと、また、自分は何でもできる…とも思いながら船のデッキに立ち、この横浜港に呑み込まれるように帰ってきた、あまりに若く、そして苦い旅の終わりの景色であった。

あれから50年、私は老い、そして白内障の手術を終え、あの日と同じ横浜港を見ている。あの日、たった一人で船上から眺めていた景色は寂しくもあったが、今は私を支えてくださる人たちもいて、残された人生を思い、それ故の身体のメンテナンスなのだ、と思う気持ちが私を心強くする。

薄曇り空と濃い青の海を一文字に区切るかのような横浜港に少しばかり射す陽が綺麗で、一瞬、この病院が港に停泊する船にも思えて、胸にくるものがあった。

私はこの景色を「新しくなった眼」に刻みつけようといつまでもいつまでも、眺めていた。

私の今夏の花火、白内障手術

厳しい暑さが続きますが、今夏は幸い自宅での仕事の作業が多いので、思いきって七月、七夕の日、十年間ずっと施術しなければと思っていた白内障の手術をした。

一か月前に血液検査、一週間前にコロナのPCR検査をして、まずは左眼、一泊二日である。横浜の総合病院にタクシーで朝9時に入院、病院内は感染症対策で、連れ合いは入院棟には入れずに、直ぐに一人で病室へ。病衣に着替えて、点滴を受ける。

午後1時に手術室へ、手術室は広くて最新で幾つも自動扉を通り、その度に、名前とどちらの眼か、を本人確認する。看護師さんが押す車椅子なのでスピード感があり、不思議な世界に入る、気持の昂りすらも感じる。
施術台はゆったりとした椅子であり、周りは最新の機材に囲まれている。担当の女医先生の挨拶があり、椅子を一番楽な体勢にセットして、点眼麻酔。私は眼に麻酔してメスが眼になんてことをイメージしていて、やはり怖いなと思っていたが、そんなアナログなことはなかった。

なにやら顔にテープが貼られて顔の動きを止めて、眼だけが露出しているようだ。
もう一度点眼麻酔をされると、眼には、まるで花火のような光がただ当たる。その中に黒い点が三つ無作為に動いている。「黒い点の動きを追わないで、漠然と光を見ててください」の声がかかる。ジッと見ていると、まるで万華鏡を回して見ているようだ…と思っていると、担当医の先生の声が聞こえてくる「Sさんの迎えの車椅子をお願いします」と、施術は終わったということだ。それから眼に水を流されてたようで、目を眼帯で顔半分くらい覆われて終わった。うーん施術台に座って15分経ったくらいの時間であったように思う。

映画とかドラマで手術室のシーンはよく見る。全身麻酔で施術される患者さんはオペの様子はわからないだろうが、眼の施術だったせいかわからないけど、私の想像よりも随分と手術室は綺麗で広く、患者に安心感とリラックスさせる設備になっていた。視覚的なことも患者にとっては重要なのだと思う。実際私の血圧は施術台に座ってから下りるまで正常に安定していた。

しかし、以前から白内障施術の間はあんな花火のような光の洪水の中で行われていたのだろうか、凄い発想だなと。

病室に戻ると1時間、安静にベッドに横になって過ごし、これまでだと家族が側に居るのだろうけれど、入院棟はともかく患者のみで、付き添いの人は一人も居なかった。何もかもを患者一人でやるのである。重病患者の場合はどうなっているのだろうか。感染症の予防である、この二年間はこのような体制なのであろう。看護師さんの数も少なくなっているとのこと、コロナ禍で総合病院は大変だったのだと思われた。

その日は一泊して翌朝、術後の検査をして眼帯を外して、午後帰宅した。片方の眼を眼帯で塞ぐのは、やはりストレスがかかり、病棟では歩くのに注意が必要だった。
二週間の期間を空けて、今度はもう片方の眼を同じ要領で手術する。
七月は今年は白内障の手術で全てである。

「本格的な老い」を前にして、これからは景色を眺めたり、本を読んだりするのにストレスがなく、クリアーな目の状態で生活していきたいが為であり、この時期が良い決断だったと思っている。

ラジオドラマ『あの日々たちよ〜詩劇としての』聴き逃し配信中!

私の書いた初めての脚本『あの日々たちよ〜詩劇としての』の放送も先日土曜(6月11日)NHK- FMシアターにて放送されました。お聴き頂いた人たち本当に有難うございました。

物語は、私の個人的な実体験を書いていると思われるかもしれませんが、当然、この脚本「あの日々たちよ」はフィクションです。私の頭の中で演劇というものを軸にして、現実と非現実の夢を、50年という時空を行き来して交差する「マジック・リアリズム」として書ければ良いなと念じ、拙いながらも作品として書き上げたものです。

西田敏行様を始め、全ての俳優の方の演技が素晴らしくて、私は放送を聴いていて、自分の書いたものがこんなにも生きた物語として立ち上がってきたことに驚きと悦びに包まれました。演者の方、音楽、構成のスタッフの人たちには感謝しかありません。

演劇という言葉が色んな職業に置き換えられても、それぞれの「あの日々たち」が成立する、普遍性を持っているものとして、信じて。

6月18日(土)までNHKのサイトとアプリらじる☆らじるで、「聴き逃し」配信中ですので、是非に聴いてくださいませ!NHK-FMシアターです。