白内障2〜横浜港

午前中に最後の検査を終えて、病院の最上階にあるレストランラウンジに行った。少しRがかかった全面ガラスの窓からは横浜港の全景が眺望できた。
その景色を眺めていたら、私は50年以上も前にヨーロッパをバックパッカーとして旅をしていて、シベリア鉄道でナホトカから船に乗った帰国の途の最後に横浜港が現れた、あの景色を思い出した。
一般的な社会のレールを外れていた私はその時23歳になっていたが、帰国したら落ち着いて何かをやらなければと、また、自分は何でもできる…とも思いながら船のデッキに立ち、この横浜港に呑み込まれるように帰ってきた、あまりに若く、そして苦い旅の終わりの景色であった。

あれから50年、私は老い、そして白内障の手術を終え、あの日と同じ横浜港を見ている。あの日、たった一人で船上から眺めていた景色は寂しくもあったが、今は私を支えてくださる人たちもいて、残された人生を思い、それ故の身体のメンテナンスなのだ、と思う気持ちが私を心強くする。

薄曇り空と濃い青の海を一文字に区切るかのような横浜港に少しばかり射す陽が綺麗で、一瞬、この病院が港に停泊する船にも思えて、胸にくるものがあった。

私はこの景色を「新しくなった眼」に刻みつけようといつまでもいつまでも、眺めていた。

私の今夏の花火、白内障手術

厳しい暑さが続きますが、今夏は幸い自宅での仕事の作業が多いので、思いきって七月、七夕の日、十年間ずっと施術しなければと思っていた白内障の手術をした。

一か月前に血液検査、一週間前にコロナのPCR検査をして、まずは左眼、一泊二日である。横浜の総合病院にタクシーで朝9時に入院、病院内は感染症対策で、連れ合いは入院棟には入れずに、直ぐに一人で病室へ。病衣に着替えて、点滴を受ける。

午後1時に手術室へ、手術室は広くて最新で幾つも自動扉を通り、その度に、名前とどちらの眼か、を本人確認する。看護師さんが押す車椅子なのでスピード感があり、不思議な世界に入る、気持の昂りすらも感じる。
施術台はゆったりとした椅子であり、周りは最新の機材に囲まれている。担当の女医先生の挨拶があり、椅子を一番楽な体勢にセットして、点眼麻酔。私は眼に麻酔してメスが眼になんてことをイメージしていて、やはり怖いなと思っていたが、そんなアナログなことはなかった。

なにやら顔にテープが貼られて顔の動きを止めて、眼だけが露出しているようだ。
もう一度点眼麻酔をされると、眼には、まるで花火のような光がただ当たる。その中に黒い点が三つ無作為に動いている。「黒い点の動きを追わないで、漠然と光を見ててください」の声がかかる。ジッと見ていると、まるで万華鏡を回して見ているようだ…と思っていると、担当医の先生の声が聞こえてくる「Sさんの迎えの車椅子をお願いします」と、施術は終わったということだ。それから眼に水を流されてたようで、目を眼帯で顔半分くらい覆われて終わった。うーん施術台に座って15分経ったくらいの時間であったように思う。

映画とかドラマで手術室のシーンはよく見る。全身麻酔で施術される患者さんはオペの様子はわからないだろうが、眼の施術だったせいかわからないけど、私の想像よりも随分と手術室は綺麗で広く、患者に安心感とリラックスさせる設備になっていた。視覚的なことも患者にとっては重要なのだと思う。実際私の血圧は施術台に座ってから下りるまで正常に安定していた。

しかし、以前から白内障施術の間はあんな花火のような光の洪水の中で行われていたのだろうか、凄い発想だなと。

病室に戻ると1時間、安静にベッドに横になって過ごし、これまでだと家族が側に居るのだろうけれど、入院棟はともかく患者のみで、付き添いの人は一人も居なかった。何もかもを患者一人でやるのである。重病患者の場合はどうなっているのだろうか。感染症の予防である、この二年間はこのような体制なのであろう。看護師さんの数も少なくなっているとのこと、コロナ禍で総合病院は大変だったのだと思われた。

その日は一泊して翌朝、術後の検査をして眼帯を外して、午後帰宅した。片方の眼を眼帯で塞ぐのは、やはりストレスがかかり、病棟では歩くのに注意が必要だった。
二週間の期間を空けて、今度はもう片方の眼を同じ要領で手術する。
七月は今年は白内障の手術で全てである。

「本格的な老い」を前にして、これからは景色を眺めたり、本を読んだりするのにストレスがなく、クリアーな目の状態で生活していきたいが為であり、この時期が良い決断だったと思っている。

ラジオドラマ『あの日々たちよ〜詩劇としての』聴き逃し配信中!

私の書いた初めての脚本『あの日々たちよ〜詩劇としての』の放送も先日土曜(6月11日)NHK- FMシアターにて放送されました。お聴き頂いた人たち本当に有難うございました。

物語は、私の個人的な実体験を書いていると思われるかもしれませんが、当然、この脚本「あの日々たちよ」はフィクションです。私の頭の中で演劇というものを軸にして、現実と非現実の夢を、50年という時空を行き来して交差する「マジック・リアリズム」として書ければ良いなと念じ、拙いながらも作品として書き上げたものです。

西田敏行様を始め、全ての俳優の方の演技が素晴らしくて、私は放送を聴いていて、自分の書いたものがこんなにも生きた物語として立ち上がってきたことに驚きと悦びに包まれました。演者の方、音楽、構成のスタッフの人たちには感謝しかありません。

演劇という言葉が色んな職業に置き換えられても、それぞれの「あの日々たち」が成立する、普遍性を持っているものとして、信じて。

6月18日(土)までNHKのサイトとアプリらじる☆らじるで、「聴き逃し」配信中ですので、是非に聴いてくださいませ!NHK-FMシアターです。

ドキュメンタリー番組「やったぜ!じいちゃん」のナレーション

名古屋のCBCテレビで放送されるドキュメンタリー番組「やったぜ!じいちゃん」のナレーションを担当することになり、先日私は人間の命の在り様の映像を前にして、マイクに向かい静かに言葉を発し続けた。

名古屋にある制作会社の方の丁寧な心の籠ったオファーであり、私は以前の声ではないし、集中力の持続にも不安があったが、この人たちと一緒にこのドキュメントの制作に関わりたいと思った。

生まれて直ぐに脳性麻痺と診断され、20歳までは生きられないと宣言された人が74歳の今日まで、力いっぱい生きてこられた、それが常に家族と共にあることを追った人間ドキュメントである。

私は彼と同い年74歳である。ナレーションをしながら、生きるということは何なんだ、そしてこの彼と家族の愛おしい世界を観ながら、これから残された人生の一日一日を大切に、生きなければと教えられた。私たちの人生はまだまだ続くのである。

精一杯のナレーション作業であったが、そのもう一つ先のギリギリ、スレスレの試みでやらないとこの映像には対峙できないと思い、緊張したが、スタッフの皆さんのおかげで何とか拙いながらも乗りきれたと思う。帰りのタクシーの中では、清々しくも尊い時間が過ごせた思い、この歳になって、この様な仕事ができたことが嬉しく感謝の一日であった。

先ずは名古屋、中京圏の放送であるが全国の多くの皆さんにも観て欲しい、触れて欲しい、ある市井の人のリアルで温かいドキュメンタリー番組である。

SDGsミニドラマ「種をまく」が放送されます

NHK SDGsミニドラマ「種をまく Planting a Seed」が放送されることになりました。
2分間の静かな時間を、ぜひあじわってみてください。

NHK総合
5月20日(金)午後23時47分〜
5月22日(日)午前5時12分〜/午前11時17分〜
6月17日(金)午後23時47分〜
6月19日(日)午前5時12分〜/午前11時17分〜

*予定が変更になる場合もございます

NHK SDGs作品「種をまく」を撮影した

映画のことを話そう。

横浜の戸部の街の一画に「シネマノヴェチェント」という映写技師さんが運営されているミニシアターがある。
そこで企画された映画「12人の優しい日本人」の上映と監督の中原俊さんと私の二人トークイベントが先日催された。
今、住んでいる横浜の自宅から車で20分の所で私にはストレスにならない距離である。「12人の優しい日本人」は1991年公開であり、監督の中原さんに逢うのも30年ぶりで撮影時には話せなかったことも落ち着いて話ができると思い、映画館の支配人の心意気も感じて出かけた。
上映後も残ってくださったお客様も含めて、30年前の映画のことを、私が知っていること、知らなかったことを監督と話せたのは幸せな時間であった。
私が演劇から映画に舵を切った作品なのでその原点に立ち戻り、ここで監督と話しながら、映画全体の中身のことだけでなく、私の個人的に思い出深いこの映画スタッフの人たち、もう亡くなられた人、また年を経て、老い故にこの場に来られない愛おしい人のことをしきりに思い出していた。
心にとどまり、記憶として残っている人や物事はこの映画全体のことではなく、やはり個のものであった。全体を語るのでなく個のことを語るのが一番自分に正直なのだと思った。

場所が横浜のディープで不便な所なのに、懇意にしている出版関係の友人が二人連れで来てくださっていた。このイベントに私が出ることは、私のホームページをチェックしていないとわからないので、ホームページを見てくれて来てくださったことが本当に有り難いことであった。
そしてまた、ある人は映画と関係なく、私の書いたエッセイ『歌うように伝えたい』の本へのサインを望まれ、それが1年前の初刷りの刊行本だったので(現在は6刷)私は驚き、今日は映画のことだけでなくステキな二つの出会いが確認できて、この出逢いも含めた全てが「31年経った私の12人の優しい日本人」という映画が着地した豊かさであり、長い時間を経たこの映画の大切な、幸福な広がりがあったと感じ入った一日であった。

ラジオドラマに生きてみた。

先日、私の書いた脚本のドラマの収録があった。
私の作業としての役割はもう何もないのですが、紙の上に勝手に思うままに書き込んだ登場人物が、この日は俳優さん達の力で立ち上がり、命を吹き込まれる。その奇跡のような瞬間を信じ、そして感じたくて、スタジオの隅で息を殺して、聴き、眺めていた。
自分自身が俳優という生業で生きてきたのに、俳優さんたちの役へのアプローチが凄くて、恥ずかしながら胸が詰まって熱いものが込み上げて、素晴らしい時間を過ごし、このような経験できたことに感謝しかない収録の一日であった。
力のある素敵な俳優さん達がこの私の拙作に集結してくださり、スタッフさんたちと共に軽々と脚本というものを超えて、広がりと深みのある作品にしてくださった。

もうすぐこのラジオドラマの情報が解禁されますので、愉しみにお待ちくださいませ。

収録の翌日は春の嵐で天気は荒れていましたが、私の気持ちは、この歳になってまたひとつの新しい分野の仕事を成し遂げられたという、若い頃に壁を越える度に感じたような清々しいものであった。

NHK-FMシアター「あの日々たちよ〜詩劇としての」 6月11日(土)午後22時〜放送

book&writing「ラジオドラマを聞いてみよう」

春風が吹く

母屋の庭に植えていた山椒の木から、義妹が蕾を摘んで、少し良い肉を買い花山椒のしゃぶしゃぶを作ってくれた。私は生まれて初めて食し、その香りと、口に含むと何とも言えない風味で春の訪れを食卓でも満喫した。この暖かさだともう明日になると蕾が花となり、食べる期を失う一瞬の花山椒の夕食であった。ホタルイカの土鍋ご飯といい、家族での季節の食に舌鼓を打つ。

昨年から書いてきた作業が自分の手から離れ、最終段階に入って少し私の気持ちも落ち着いてきた。これからの作業が大変なのだろうが、早く情報解禁になり、皆さまにお知らせしたい気持ちでいっぱいです。

ただ世の中に平穏な日々が訪れますようにと祈り願う春の一日、一日である。

私の3月19日、身体の声を聞く。

3月19日、この日は私が病で倒れた日だ。
身体に少し不具合が残り人生につまずいた日である。突然日常を絶たれた失意と哀しみ、そして悔しさ。しかし、それらの感情と同時に生命には限りのあることが骨身に染みて、これからの残された私の生命を全て使い切って、小さな自分の可能性を信じて歩き続けようとした日でもある。

8年が経った。この日だけは外出はしないで、何も予定は入れず、家で読みたい本、何度も励まされ、癒やしてくれた本を再読し、音楽を聴いて過ごす一日と決めている。

今夜はNHKのラジオドラマ、FMシアターにて、脚本家の渡辺あやさんの作品『はるかぜ、氷をとく』が再放送される。このラジオドラマを聴いて、大切な一日を終えようと思う。

私たちの望むものは

生きる苦しさではなく 生きる喜びなのだ

私たちの望むものは

人が争い戦うことでなく 人が平穏な日常をおくること

                2022年3月 春