「肋骨ポキリ」とネコくん

いつも私にはクールな態度でいるウズくん(ウチのネコ)。
先日、私は家の中で躓いて胸を打ったあとで痛くなり、病院へ。レントゲンでは大丈夫だったが血液検査でどうも内出血しているとのことで、CTを撮ると背中側の肋骨が骨折していた。しかし治療としては痛み止めとコルセット、安静でいるしかない。帰宅して暑いなか横になる。
少しウトウトしていたら、ウズくんがベッドに上がってきて顔のところにいて、目が合うと「ナオル、ニャオル……」と言っている。「エッ、治る、治る、と言ってるの?」と聞いたら、彼はシッポをピクピクさせている。私が昼間にベットで寝ていることはまずないので、彼は心配したのだろうと思うと、なんて奴なんだ、と私は少し胸がつまり、「肋骨、ポキリなんだ……」と言ったら、いつものアッソって感じで涼しいところへ飛んでいった。つづく。

書評04『天路の旅人』沢木耕太郎著/『すなはまのバレリーナ』川島京子文・ささめやゆき絵

『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2023年4月2日号掲載)

沢木耕太郎『天路の旅人』(新潮社)を読み、約束を果たすということを想う。

第二次大戦末期、ひとりの若者(西川一三)が密偵の命を受け、中国大陸の奥深くにラマ教の巡礼僧として潜入し、敗戦後もなお、チベット、インドへと足掛け八年に及ぶ旅をした。その壮大な旅の記録は西川氏の『秘境西域八年の潜行』に記されている。ノンフィクション作家として沢木耕太郎氏は、西川氏とのインタビューを開始して〈この人について書いてみたい、と強く思った〉と、しかしその時点では人物像に迫るに至らず時は流れていった。その後、西川氏の訃報を知り、またその本の生原稿との出会いの僥倖もあるが、『天路の旅人』という長編ノンフィクションが上梓されるまでには四半世紀もの時を経たのである。

沢木氏は自身が辿ったインタビュー取材の行程を本書でくまなく描くことによって、旅が始まる前に西川氏の魅力ある人柄を作り上げ、私たち読者はそれを読み知ることによって西川氏と一緒に長い旅をしているかのようであった。

いつにもまして私はこの本を自分に引きつけて読んだ。それは沢木氏が同じ世代の作家であり、私自身、大学を出た後、社会のレールを外れバックパッカーとしてこの国を出た時があったからだ。私の一人旅はあまりにも無邪気で、あいまいなものではあったが、少しの気の緩みが事故を招き、命が危険に晒されることを思い知り、未知への好奇心とともに自制の気持がないといけないことは身に染みていた。西川氏の旅も初期は〈みんなの前で自分がいかに旅人として無力かを見せつけられたように思った。恥ずかしかった。だが、これからひとつひとつ身につけていけばいいのだという謙虚な気持ちも生まれていた〉とあり、私にはその記述がリアルに響いた。そこから徐々に経験を重ね、次第に旅の生活が日常化するがごとく逞しくなり、敗戦後自分に課せられたものから解かれて、真の旅人として辿る彼の旅は澄み切って、より宗教的なものになっていくように思えた。しかし旅人は、上半身は空に引っ張られて、下半身は地を這いまわるのだが決してその地に根付くことはできない。ゆえに八年もの旅によって、ある意味で宙吊りになった西川氏の身体を、著者がインタビューと生原稿の二つを突き合わせて、この旅の記録を文学作品に仕上げ、書き上げて、私たち読み人に届けてくれた。〈私が描きたいのは、西川一三の旅そのものではなく、その旅をした西川一三という稀有な旅人なのだ〉

同時代に同世代としてその風景を違う立ち位置で見ながら、沢木氏の著作を読み続けてきた私は、時代の鏡として、その時々に励まされてきた。人間の影の部分に光を当てるのではなく、徹底的な取材によって影そのものが光を放ってくるのである。

この稀有な旅人の背中を緊張感をもって見守り、旅は終えても、この男のたどり着くところを最後まで見届けようとするこの本の圧倒的な旅と人生のすごみに私は取り憑かれ、引きずりこまれた。

同時に著者が四半世紀もの時をかけ、この作品を書き切ることで、旅の超人との、また自分自身との約束を果たされたのだと想った。取材した人物に寄り添うことを常とするノンフィクション作家としての矜持を持ち続け、一貫して揺らぐことのない沢木氏の誠実さに胸が詰まり、私はこの本を静かに閉じた。

〈どこへいっても、なにももっていなくても、身につけたおどりが一生の財産よ〉

『すなはまのバレリーナ』(のら書店)は、今は世界有数のバレエ大国日本の礎となったエリアナ・パヴロバの生涯とその教え子の交流を川島京子の文と画家ささめやゆきの絵で届ける絵本である。

大正から昭和の初め頃、踊りといえばまだ着物を着て踊る日本舞踊くらいしか知られていなかった時代に、若い人たちが、家を捨て、仕事を投げ出して鎌倉の七里ガ浜にできたエリアナのバレエ学校に集まった。日本に溶け込むために彼女は名前も日本名に変えて、生徒たちにバレエの技術と魂を教えた。そして日本人として、折からの戦争の渦に巻き込まれて翼賛体制の慰問団に加わり、再び日本に帰ることなく、病で中国の南京で亡くなった。祖国を追われて、日本に亡命し、バレエの普及と愛する教え子たちのための捨て身の旅がここにもあった。

【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年4月20日号で18回目を迎えました。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。4月から毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致します。ぜひご覧ください。

(*紹介した本からの引用は〈 〉になっています)

渥美清さんのこと。昔のことを思い出す。

劇団にいながら、つかこうへいさんの芝居を演るようになって2年が経ち、渋谷パルコ劇場にて新作「幕末純情伝」の幕が開いた。幕末に生きた新撰組をつかこうへい氏の独特の解釈で書かれた物語である(後、映画化もされた)。僕は土方歳三の役であった。

初日の幕が開き、緊張感も薄れて、いつものつか芝居の観客に観せるというよりも、観客を巻き込んで劇場が一体化する、笑いと泣きの緩急。いわゆる俳優もノッた状態。

そんなある日、開演前の楽屋で桂小五郎役である東京ヴォードヴィルショーの石井愃一さんが緊張気味に「今日は渥美清さんが観に来てくれる、緊張するわ」と言われた。石井さんは以前渥美さんの付き人をされていたという。楽屋は少し騒ついたが、つか芝居にはその頃の名のある俳優さん達が押し寄せているので、なんのことはなく、私もへえー渥美清さんか、と思いつつそんなことも忘れていつも通りに本番の幕が開いた。

劇の半ば過ぎ、舞台上の私は桂小五郎役の石井さんが舞台袖で出番を待っているのを確認。私、土方が声をかけての桂小五郎の登場である。そこで私は大声をあげた「さくら!」

……と、言っている私は、頭の中が一瞬真っ白になった。「かつら!」を「さくら!」と言ったのだ。さくらは映画「男はつらいよ」の渥美さん演じる寅さんの妹の名前だ。私はうろたえたが石井さんは堂々と桂小五郎で舞台上に登場して、台詞を言っている。間違いに気づいていないのか⁉︎ 客席も揺るがない、劇に集中している。まさか、私が「さくら」と言ったとは思っていないのか、誰も。幕が降りて、芝居が終わっても誰もそのことは言わない、それを私だけが今も覚えている。私の膨大な台詞量の中に、渥美清さんが無意識に潜み忍び込んでいたのだろう。あの時から多くの舞台も演ったが、私は一度も虚(芝居)の自分を信じていない。

渥美清さんが客席で「エッ、まさか」と思ってくれていたら、嬉しいなと思う。テレビでは何回も「男はつらいよ」は放送されている。時にはシンミリしたりすることはあるが、何時もあの日の舞台を思い出す。誰かに話したくて初めて此処に書いた。

平成の始まった年だから30年以上が経った、時効であろう……。

渥美清さんには一度も会ったことは無い。

書評03『見えない音、聴こえない絵』大竹伸朗著/『異郷の陽だまり』野見山暁治著

『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2023年2月12日号掲載)

2006年10月、東京都現代美術館での「大竹伸朗全景1955―2006」展。観に来ていた人たちはまるで別の世界に誘われたようにみんな興奮していた。屋上には本物の「宇和島駅」の電飾ネオンが光り、企画展示室の3階から、氏の6歳から作ったもの、日記、貼り絵などから時系列に全館を使って展示された作品2000点。私はとても一日では見切ることができなくて二日間かけてやっとの、前代未聞の美術展だった。その日の日記に【全フロアの作品群に圧倒され自分の生業をやっていくなかで、突き詰める、そして中身を問うという意味でも大竹伸朗氏の展開力は自分にとって大事な存在である。】と記している。その「全景」展の前後に大竹さんにまとわりついた創造への衝動や気配を言葉に置き換えて書かれた著書『見えない音、聴こえない絵』(ちくま文庫)がこの度文庫化され発売になった。

私は美術館に行って、一つ一つの作品を理解しようと観ているわけではない。ゆっくりと歩き回って観ているのだが、何故か足の止まる作品がある。その時はその作品への集中力を高め、時間をかけて観る、そして自分の中のどの部分が反応して囚われたのかを考える。対象がいかに難解であってもそれが私の嗜好といえるものなのだと思っている。本や映画を選ぶ、また好きな音楽を聴く感覚も同様である。そして無数のそうした作品の中で足を止め直感的にチョイスしたものによって、自分を知り、己の個というものを意識するのであろう。

今、色んな分野で影響力のある若いトップランナーたちの中で大竹さんの作品のファンが増え続けている。それは彼の創作に向かう姿勢と膨大な質量の作品への説得力が個々に訴えかけるからであろう。理解し難い作品であっても彼らの感性がそこに本物を嗅ぎ分けるチョイスをして「大竹さんは格好良い」という表現をして自分たちの活動の原動力にしているように思える。美術、絵画などをただ鑑賞するのでなく生き方や生活の励みとして取り込む新しい芸術へのアプローチが始まった。

大竹さんは画家であり美術家なのだが、彼こそはアーティストと言われるのが相応しい作家の一人だと思う。氏の圧倒的な作品と迫力は接した者の心を揺さぶる。そこには説明できない孤高があり、懐かしさを持った根源的なものがある。私は妻と北海道の別海、瀬戸内海の直島、常滑での「焼憶」展、水戸の「ビル景」展などにも作品と向き合うために時間に余裕を持って観に行ったが、展覧会に関わった地元の方々とか道案内をしてもらった人たちのことを作品と一体化して思い出す。その全てが大竹さんの世界に包まれているような気がして贅沢な美術の旅をさせてもらった。東京国立近代美術館で「大竹伸朗展」が(*2023年)2月5日まで開催されている。

画家、野見山暁治102歳。

〈あれからかなりの歳月がたつ。もう一度、あのしじまに立って、今の自分を見つめてみたい〉

氏の創作意欲は、命は使う時に(つまり生きている時に)使わねば意味がない、と言わんばかりである。私が野見山さんの著作に触れたのは、アート系の書店で手にした『四百字のデッサン』であり、それから絵画展にも行くようになった。絵の見方がわからない私にその著書から具象と抽象の違いを言葉でわからせてくれたりもした。

氏の展覧会で会場に入った瞬間に、いつも目に飛びこんで来るのは「青」の色である。透明で哀しくて明るい、痛切、諧謔(かいぎゃく)、果てしのないブルー。それは野見山さんの遠近メガネを通して書かれた多くの著作にも感じる。

一冊にしぼりきれないが、ここでは『異郷の陽だまり』(生活の友社)を取り上げたいと思う。リアルで執拗な観察と表現をもって書かれた戦争、パリでの交友録、無言館、震災、鎮魂、生と死……。

〈ぼくは他愛のない顔のまま年をとった。経験を見事に刻みこんだ老人もいるが、ぼくは幼い顔立ちのまま萎びてきている。/結構だ。このまま生き続ければいい。生、そのものがイルージョンだと、今は思うようになった〉

野見山暁治氏が生きてこられた百年は、日本の百年の時代のきれぎれを線でなく面で捉えた、あくまでも私的な、キセキの追想の記録でもある。

【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年4月20日号で18回目を迎えました。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。4月から毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致します。ぜひご覧ください。

(*紹介した本からの引用は〈 〉になっています)

書評02『世阿弥最後の花』藤沢周著/『東京ヒゴロ』松本大洋著

『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2022年12月11日号掲載)

薄暗闇の中、窓からは人工の灯りが差し込む、ディレクターの声が聞こえる。「カメラ回りました」、私は頷く。「スタート」、恐らくカメラ(ビデオ)の回ったスタジオ内はこの世で最も静かな空間であると思う。都内のスタジオに建てられたレトロな書斎、朝10時、私はただソファに身を沈めている。出演は私一人、モノクロ映像、本編は15分だが朝から撮り続けている。象徴的な老人、光と影、言葉はなく相手役もいない、俳優としてこんな機会は二度とない。ただぼんやりと映されるのでなく、居るだけでもう何かが始まっているような、そんな居住まいをこの作品で出来れば……。そこで撮影とは別に私の内面に景色を抱え込むため、頭に一冊の本を滲ませることを決めた。老い、夢と現(うつつ)、演者、居場所。

〈光とはなんと不思議なものでございましょう。〉〈七十を越えた背中には、まるで感情が表れない。痩せているにもかかわらず、侘しさや不安の色をもつゆとも見せず、ただそこにある、そこに座っている、という風情なのです。〉世阿弥元清、七十二歳。

藤沢周『世阿弥最後の花』(河出書房新社)である。ここに私の老いの行く末の道とこの撮影の肝があるように思ったのだろう、撮影と並行するかの如く、私は意識を小説の中の世阿弥にむけた。〈『目前心後』、目を前に見て、心を後ろに置け〉〈明け暮れの所作においても、自らの目の届かぬ所の動きを心で見ねばならぬ〉。世阿弥の心得をこの身に刻み、カメラの前に居続ける。

撮影はもう夕方に近い。耳を澄ますと、老いて独りの私に遠い幽玄の世界から、何よりも咲く花の美しさもあるが散る美しさもある、との言葉が微かに聴こえて来る。虚と実の境目があやふやになり、何処(いずこ)に向いているのかわからなくなっている自分の老いの行く末と演者としての立ち位置。先ずはこの場で無心になり、これからは自分の心と身体を何かに明け渡すような作業を繰り返し、与えられたその場、その時に集中するのが肝心なのであろう。本と少しは交信できているのだろうか……。カメラは回り続けている、書斎を出て一粒の種を蒔く。スタジオの隅から射す一筋の光、立ち上がると足元から長い影ができ、その後、蒔いた種が私の影と共に百年の時空を超えてマレーシアの森林へと続き、大樹に育っている場面になり持続可能な世界の作品は終わるのである。〈……一生はただ夢のごとし、たれか百年の齢(よわい)を期せん……〉

老翁世阿弥は失意のなか、流された佐渡の地で何を見、想い、どの様に舞ったか。

「カット」、ディレクターの声に私は夢から覚め、役から解放されるが、世阿弥の影がしばらくは私の影と重なり合い、頭から離れることはなかった。小説と撮影が出会い、幸せな併走であったと思う。

著者の世阿弥を書くという覚悟と緊張感が結実したこの作品は、研ぎ澄まされた美しい言葉と和歌を散りばめた一編の詩のようでもあり、その描写は残像として濃淡のある墨絵のごとく残り心を捉える。

この小説には時間をかけ少しずつ読み、一息入れて物語に浸り、本に栞を挿む喜びがあった。

私は団塊の世代である。小学6年生の時に初めて漫画が毎週発売されるようになった。『少年マガジン』『少年サンデー』である。それ以前は貸本屋や月刊『ぼくら』など。あのシリアスな大学時代にも傍らには必ず漫画があった。『ガロ』、 青年誌(私は宮谷一彦が好きだった)などが。

いつになったら漫画、コミックから離れるのかと思っていたが、ここに来てグッとくる物語が現れた。雑誌に連載されていたものが昨年コミックとして1巻目が刊行された、松本大洋『東京ヒゴロ』(小学館)である。

独特の味わいをもつ登場人物のキャラクター、そして拘りのカット割りの素晴らしさと引いた絵の完璧な作画、著者の世界。この秋にやっと2巻目が出た。私の漫画、コミックへのアプローチも、これが最後のものになるのは間違いない。

憧憬、郷愁、悔恨、再生、希望の全てがこのマンガ作品にはある。ともかくも格好良いのである。効率、生産性を声高に叫ぶ今の世に静かにノンと言い、愚直に自分の理想の漫画作品を追い求める編集者の夢が見果てぬものでないことを祈り、この体温のある静止画(漫画)の世界『東京ヒゴロ』を支持するものである。

【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年4月20日号で18回目を迎えました。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。4月から毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致します。ぜひご覧ください。

(*紹介した本からの引用は〈 〉になっています。文章中の時制は掲載当時のものです)

書評01『寡黙なる巨人』多田富雄著/『とあるひととき』花王プラザ編

『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2022年10月16・23日合併号掲載)

私の前から本、書籍、物語が消えた半年がある。
今から8年前のある日、突然身体に異変をきたし、生命はあったが元の自分に戻れない、仕事どころか日常生活にも支障をきたすような左半身に不具合が残ったのである。その年の春から秋にかけての半年の入院の間は、ただ不具合な自分の身体と向き合うだけの過酷な闘いの日々であり、それまでの楽しみであった読書、そして生業(なりわい)でもある俳優として、毎週のごとく押し寄せてきた新しい物語(台本)も含めて、これら一切の書籍、活字が私の中から消えた。
半年の入院で何とか杖をついて歩けるまではきたが、医師はこの症状の行き着く先のことを告げることはなかった。退院して、そのまま日常生活に放り出された私は社会から置き去りにされ、行先の見えないリハビリを繰り返すだけで不安は募るばかりであったが、そんな中、一冊の本に出会った。免疫学の世界的権威である多田富雄さんが私と同じ病に倒れて(症状は私の比でなく重い)書かれた『寡黙なる巨人』(集英社文庫)である。
私は恐る恐る手にとり、読み進み、休み、読み返すことを繰り返し、再び本というものに出会ったのであった。体験した者にしかわからない後遺症の実態と心情はリアルで事細かく、元に戻ることの先を示唆するものであった。ここにきて私をして新しい私を誕生させてくれたこの本は、萎えてしまっていた私の精神と身体に、まるで生き物のように血を通わせて染み込んできたのである。
これは「受容しなければならない運命」であり、今の再生医学では元に戻ることはない。「私が一歩を踏み出すとしたら、それは失われた私の足を借りて、何者かが歩き始めるのだ」。そして私の中には「得体の知れない何かが生まれている。もしそうだとすれば、そいつに会ってやろう。私は新しく生まれ変わるものに期待と希望を持った。新しいものよ、早く目覚めよ。(中略)彼は無限の可能性を秘めて私の中に胎動しているように感じた」
私はこのような言葉にすがり、信じて、元に戻るという考えをスッパリと捨てた。この不具合な身体こそが新しい私なのだ。この決断はそれでもなお生きて行こうとする私には大きな励みとなり未来へと繋がっていった。そしてこの本に共感するだけでなく、以前、詩の朗読や台本に書かれた役を自分のものにしようとした時のように、声に出して毎日少しずつ読んで過ごすところまできたのであった。
あの時期にこの本に出会えなかったら私は今の私ではあるまい。サバイバーとしての心の地図でもあり生きる力を支えてくれたバイブルでもあった。
また、著者の多田さんは能の新作をも書かれていた。芸術としての文学(詩と能楽の創作)が持つ、大切さ美しさをあの過酷な状態の中でも失われていなかったのである。私が俳優以外の今の自分の有りようを確かめるために新しい可能性を求め、挑戦したのは、闘病の中にも人生の輝きを信じて放ったこの本に少しでも追従しようと思ったからであった。
私はあるべき日常に割り込み、徐々にカメラの前にも立つようになった。そして無くしたものと入れ替わるように、本、書籍が寄せる波のように戻ってきた。次第に片方の手だけで本を持ちページをめくることにも慣れてきたが、読む本の傾向は変わり、自分の身体に聴き、情報だけに頼らず勘で選んでいる。それは本が私の身体性と生命みたいなものとの表裏であることを知ったからである。

先日、淡い色の装丁と『とあるひととき』(花王プラザ編/平凡社)の題名に惹かれてこの本を手にした。本は著名な作家さんたちのエッセイアンソロジーであり、作中のそれぞれの「とあるひととき」の日常はいろんな色に彩られている。各編に差し込まれた画(イラストレーション)を含めて、この本は押し付けがましくないのである。
頑張った日々、怠けていた日、泣いた時、笑ったあの日。切り取られた時間は全てが等価であり、その時々の人生を生活を等しく彩る。
色のない世界だと思っていた私の苦しかったあの日常も、「とあるひととき」として切り取った時間は淡く色付いていたのだなと思われ温かいものが胸に溢れた。
大きな手術をして、今は静かに療養している若い友人に穏やかで優しいこの本を送ろうと思う。

【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年4月20日号(4月8日発売予定)で18回目を迎えます。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社、編集部のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。2025年4月から毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致します。ぜひご覧ください。

(*紹介した本からの引用部分は「」になっています)

映画と文庫本のこと

「劇映画 孤独のグルメ」が、いよいよ明日1月10日(金)公開でございます。
是非に劇場へ!
私は今までの映画とガラッと変えた役で出ています。どの世代の人たちにも観ていただけるエンターティメント映画作品です。お楽しみに!

そして同時に、私の文庫版エッセイ『歌うように伝えたい』がちくま文庫で発売になります。1月14日には全国の書店さんに並びます。またネットでも予約を受け付けています。

【私はそして私たちは今ここに生きている。】
そんな言葉を心に刻み込んで、新しく生まれ変わった文庫版『歌うように伝えたい』、解説は川本三郎さんです。ヨロシクお願い致します。 

ちくま文庫『歌うように伝えたい』塩見三省著 定価880円(10%税込)     

新年1月9日

文庫版エッセイ『歌うように伝えたい』(ちくま文庫)2025年1月発売。

「校了しました……」筑摩書房のKさんから連絡が入った。
梅雨の頃、ちくま文庫から拙作を文庫で出すことが決まって、今年の夏は編集者のOさんと三人で何度も打ち合わせながら丁寧に加筆改訂を繰り返し、新しく蘇ったエッセイ『歌うように伝えたい』を生み出すことができた。
この私の生きたカケラ、記憶の残像を書いてきた。その時々に泣き、また笑い、息の詰まる景色。そこで出会った愛しき人たちのことを歌うように伝えたい。

そして、この10年の苦闘を壊れた身体で懸命に生きたからこそ私は今、ここ生きている。決して忘れることはない。
この一冊を抱きしめて、多くのまだ私の見知らぬ人たちに(読者)に届けたいと思っている。私の蒔いた種が、みなさまの手で実らせてくださることを願い祈って。
2024年12月末 

猫がウチにやって来た。君といつまでも!

地域猫のクロネコ君(ウチでは黒ゴマと名付けている)が庭先に顔を出すようになって半年になる。その間、母屋に住む義妹が決まった時間に毎日のように餌(煮干しの頭)をあげていると次第に懐いてきたようであり、その動向が可愛くて、妻も念願だったのでウチ猫を飼うことに決めたのであった。
義妹と妻は地域で信頼のある保護猫譲渡カフェ(カフェ料金を払い譲渡可能な猫たちと決められた時間を過ごす、予約制)に通い、その折、すぐに二人に馴染んでくれた猫(生後7ヶ月オス)に決めた。
ついに猫がウチにやって来た。それから1週間はその家に適しているかのトライアルが始まる。初めの日は育ててくれたIさんにケージの中で過ごした方がいいと言われていたが、夕方になりニャア、ニャアと鳴き、出してくれ!と言わんばかりなのでケージから出してやった。
最初は部屋の隅の椅子の暗がりの中でうずくまっていたが、そのまま放っておいて見ていると、キョロキョロしながら歩いてきて二人の中に紛れるように懐いてスリスリしてきた。で、もうケージの中でなくその場で出した食事をカリカリと食べ出した。その動画をIさんに送ったら、すごく安心したとの返信があり、何とかトライアルも大丈夫そうなので、名前を付けることにした。義妹の提案でウズラ豆模様の猫なのでウズラ豆を採用。
いよいよ我が家にネコ天使、ウズラがやってきた。
そして黒ゴマ君は……。

うずら豆

うずら豆

うずら豆

うずら豆

うずら豆

つづく

隔月連載で執筆している週刊誌『サンデー毎日』のエッセイ書評「遠回りの読書」7月4日発売(7月16日号)にてウズラ記を書きました。
是非に読んでくださいませ。

「あまちゃん」の頃を思う。

NHKの朝ドラ「あまちゃん」は2013年4月放送開始である。
それに先立ち、私は「琥珀の勉さん」の中の人として、前年、2012年の10月後半に岩手県久慈市(ドラマの北三陸市)のロケ現場に合流した。
丁度その時期、出演した北野武監督の映画「アウトレイジ・ビヨンド」が全国で封切りされたのを覚えている。
「あまちゃん」は宮藤官九郎さんの圧倒的な脚本、スタッフの集中力、素敵な俳優の仲間たちとの一体感があり、参加する一人ひとりの作品へのアプローチとテンションの純度も高くて、みんなのベクトルがひとつになった、気持ちの良い幸福な現場であり作品であった。
この年のロケ撮影から翌年8月のクランクアップまでの想い出は、琥珀に閉じ込められたかのように残っている。
今、10年ぶりに琥珀の中のあの記憶のカケラを覗いてみたいと思っている。「あまちゃん」の視聴者と共に。