『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2023年12月24日号掲載)
季節の変わり目、ある日、いきなり39度の発熱、とんでもなく苦しくこれはもしかしてと、翌朝直ぐに発熱外来を予約して病院に駆け込んだ。パーティションに区切られ抗原検査、ついにコロナか……。15分、診察室で検査結果、陰性。風邪とのこと、処方箋をもらい、直ぐに帰宅。自宅での安静。ジッとベッドに横になっていたがその日も夜中になっても熱が下がらない。肺炎を心配して医師は熱と咳が治るまで安静にと。病院での絶対安静は経験したが自宅での安静状態というものの加減がわからない。まる二日間横になっていて、三日目に熱が引いてソファを陽射しの差し込む部屋の隅に移動して起きて過ごす。
こんな時に読む本は息がつまるようなものは敬遠、いままで何度も読んできたがこの度文庫新装版がでた武田百合子さんのエッセイ『日日雑記』(新装版・中公文庫)を手元においた。武田百合子最後の著書であり、冒頭に〈−−いなくなった人たちに〉と言葉が添えられているからか、この本はいつもの観察力、ユーモアと澄んだ文章が彼女の他の著書以上に研ぎ澄まされているように思った。
昭和最後の三年を綴った雑記であり、頻繁に出てくる映画の話(あの頃、街角に乱立していたビデオショップなどが懐かしい)埴谷雄高、大岡昇平、吉行淳之介、昭和の文学者とのつきあいと同時に山荘の管理人、また代々木公園のホームレス、飼い猫の玉を見つめる目線が全て等価で深い愛があり秀逸である。私の先輩女優さんがあるパーティで百合子さんに会い、初めて同性のひとに嫉妬したと私に話され驚いたことがある。魅力的なひとであったのであろう。
「ある日」として括られ綴られた日々の思いはどこから読んでもすばらしい。対象に選んだもの、ひとへの興味と気分の描写にゾクゾクする。
人生で避けられないもの、哀しくて美しいのは別れの時である。深沢七郎氏の告別式に間に合わず、焼き場へ出発する車を少し離れたところらから拝み、見送る。もう主の居ない深沢宅の様子を見て、〈畑のような庭。植木や泥や石ころや板ぎれや、転がっているスコップや如雨露。柵の向こうの雑然とした景色。それらをさーっと見回し、目薬をさすように眼に入れて帰ってきた。〉親しい人との別れを、この様な客観的な描写で綴り、亡くなった当人の生活の在り様が偲ばれる鮮やかな文章だと思う。
昭和の時代……。著書を読んでいて私は若かったあの頃、ひたすらに前を向き何かを追い求めて過ごした自分は、本当に大事なことを見過ごしてきたのではないかと、まだ少し火照っている身体で思っていた。
そして風邪が抜けて巡回バスに乗り駅前の書店へ行き、読みたかった益田ミリさんの『ツユクサナツコの一生』(新潮社)を購入した。
私は益田ミリさんの漫画のファンなのである。柔らかなシンプルな画、穏やかな関西の言葉(私も関西育ち)、そして彼女の含羞、父親の存在も老いた私を引きずりこむ。益田さんの作品はどこかに一コマ空白があったり、また引いた画が読者の想像に任せ、こちらに何かを問いかけている。
この本は、淡々とコロナ禍の日常生活を描いている。わかり合おうとする人たちの苦悩と思いやりの物語、結末には静謐な驚きがある。著者の滋味のある言葉を数箇所書き出してみた。
〈人生で大切なことって/帰りたいところに/帰れることや〉
〈いばるんはまだマシやわ/ホンマにしょうもないのは/見下してくるタイプや〉〈なんやろな/見下してええと信じとる理由が、薄ら寒いんやよな〉
〈いつか自分が死ぬときって、/どんな感じなんやろ〉〈いつか絶対死ぬってわかってて生きてるのって/よう考えたら凄まじいよな〉
著書『ツユクサナツコの一生』を読むにあたり私は自家製の益田ミリ眼鏡をかけてみた。作品にはその眼鏡が感知する透明感があり、レンズに映る日常のゆらぎ、移ろいとあいまって著者自身の生きることへの真摯な姿勢が見えてくるのだ。その書き割り風の景色、家の中は距離感を持たないだけに暗示に満ちている。
コロナのマスク生活のあの二年を異様な体験として共感する時間が流れ、私もあの頃を忘れることはない。
益田ミリ眼鏡を外すと、武田百合子さんがコロナの時を生きてらしたらどんな「ある日」を書かれたのだろうかとも思った。
【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年4月20日号で18回目を迎えました。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致します。ぜひご覧ください。
(*紹介した本からの引用は〈 〉になっています)