『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2024年2月18・25日号掲載)
演劇、映画と共に俳優としてのウイングをテレビドラマにも広げていたが、いつかはこの人の書かれた脚本作品に行き当たりたいと思っていた。昨年亡くなられた脚本家・山田太一ドラマ作品である。そして二本の山田作品に出演することが出来た。嬉しかった。はたして、テレビ局内でご本人にお会いした時、直接に一本目は褒められて、二本目は本読みの場で叱責された。あれから十年以上は経ったがその時のお言葉はずっと心に残っている。
ここにきて私は山田作品を演者としてでない角度から見てみようと山田太一著『ふぞろいの林檎たちV/男たちの旅路〈オートバイ〉山田太一未発表シナリオ集』(頭木弘樹編・国書刊行会)を読んでみた。「ふぞろいの林檎たち」の放映時は私も三十代半ばを越えていたので(劇中の若者世代ではなかった)、今回は気持ちを「男たちの旅路〈オートバイ〉」に絞ってみる。
市民が平穏に暮らす団地で暴走族の騒音に悩まされる住人が解決の糸口として警備会社に頼む。あの時代の社会問題ではあった。警備司令補にはこんな台詞を吐かせる。
〈社会というものは不都合な人間を切って行かなければ、忽ち目茶目茶になってしまうんだ。悪い事は悪い、としなくてどうする? 乱暴な人間が温和しくなれば、目出度いんだ。そういうもんなんだよ〉。かなり直接的な言葉である。そして若い警備員は、〈そうですかね。悪い事は悪い。そんな、ニュアンスのないことでいいんですかね〉。
世代対立としての会話劇は結論を出さずに、ここで終わっているが、そこからは暴走族とされているが実は普通の青年たち、それぞれの生活実態の描写からのト書き〈いつくしむようにキャメラ移動して〉雨の中、鉄屑置場に打ち捨てられた数台のバイク達の全景を映し出す。そのエンディングはドラマの余韻が沁み見事である。この未発表作品を観てみたいと思った。山田太一脚本は既にト書きで、差し込む街のカット、キャメラの動きや音楽を入れる箇所など、演出の領域まで細かく書き込まれている。
もう台詞を含め台本通りに演じることで成立していると思っていたが、こうしてこの作品を読んでいても完璧な脚本ではあるが、だからといって山田作品は誰にでも出来るというものではないのだ。やはり司令補鶴田浩二(戦後の特攻隊生き残りである)の存在ありきで読んでしまう。時代とともに書き、その時々の俳優にこだわられた人だったのだと思う。また、山田さんは以前、ドラマは〈いわくいいがたい〉曖昧で多様な現実を、〈いわくいいがたい〉まま言語化せずにある世界である、とも書き残されている。稀有な脚本家でありながら言葉、台詞を超えるものとして映像作品を捉えられていたのだ。この未発表シナリオ集を読んでいて、山田太一作品の世界を少しでも生きられた私は幸せなテレビドラマの時代を享受したのだが、時間を巻き戻して、山田さんを前にしたあの緊迫した本読みの現場に、もう一度立ちたいと夢のように思うのであった……。
いわゆる社会的な政治時評、歴史認識、書籍の解説等多くの評論をしてきた文芸評論家・加藤典洋氏の著書『大きな字で書くこと/僕の一〇〇〇と一つの夜』(岩波現代文庫)。
辛口論評の著者が自分の私的なコラムをまとめた前半は、言葉は〈考えるための武器〉としていた著者が〈簡単に一つのことだけ書く文章とはどういうものだったか。それを私は思い出そうとしている〉〈大きな字で書いてみると、何が書けるか〉。
著者の言葉とのつきあいの変化が新鮮であり興味深く読んだ。後半からの詩集。詠まれた詩歌にはそれぞれに心を打つ情感があった。闘病中の詩作だったという。著書は加藤氏が初めて自分自身の内なるものに切り込んであえて言葉を平易にし、柔らかい心情をこの世に残そうとした一冊なのだと思った。
〈自転車に乗っていて上り坂にかかると、ギアを一つ落とす。スピードは出ないが、ほどほどの力で坂を上ることができるようになる。
それは一つの退歩だが、そうであることで私たちを新しい場所に連れ出す〉
私はたとえそれが少し硬くとも胆力を持って口の中に放り込み、噛みくだきながら、時間をかけて言葉にし、行きつ戻りつの日々を出来得る限り、自分の速度に合わせて送りたい。
【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年11月30日号で22回目を迎えました。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致します。ぜひご覧ください。
(*紹介した本からの引用は〈 〉になっています。また原稿の時制は掲載当時のものです)