書評08『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』坂本龍一著/『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』大友良英著

『サンデー毎日』「遠回りの読書」から(2023115日号掲載)

昨年末、彼の配信されたピアノ・ソロ、その最後の演奏を観た。鍵盤に触れる指先、その手の動きは静かに虚空を舞う。馴染みのある楽曲も全て聴くことができ、ゆったりとして深みのある編曲は流石だと感じ入り堪能した。その姿からは、痩せてはいたが演奏の集中力が醸し出す強さがあり、死の影を感じさせることなく、曲を聴かせるという一点でやはり超一流の音楽家の矜持を感じさせてくれ魅了された。そして彼、坂本龍一はこの一冊を残して私たちの前から、この世から消えてしまった。

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』(新潮社)著者坂本龍一。

2014年に中咽頭癌が発覚してからの歳月を自らのモータリティ、死を見つめながら、消えかかる生命の灯のなかでの音楽、家族、パートナー、社会、友人、恩人、芸術などへの思索、知性を感じる圧倒的な著作であった(聞き手鈴木正文氏の寄り添いと構成が素晴らしい)。YMO時代からの音楽シーンと映画における存在、社会への提言……。著書を読んで彼が(少し歳下だが、彼は東京育ちで高校時代からの全共闘世代だった)1960年代後半から70年代の文化、風俗、芸術、あの頃に青春を駆け抜けた時代感覚を含め、彼が同時代、同世代の中で傑出した芸術家の一人であったことを改めて思った。

〈音楽は時間芸術だと言われます。時間という直線の上に作品の始点があり、終点に向かって進んでいく。だから時間はぼくにとって長年の大きなテーマでした。/それでも自分自身が健康だった頃は、どこか時間の永遠性や一方向性を前提としていたところがあったのですが、生の限定性に直面した今、これまでとは違った角度から考え直す必要があるのではないかと感じています〉

私も同じ2014年に病に倒れてからの十年は終わりの見えない後遺症と不安、健全な時には思いもしなかった生と死をリアルに抱えて過ごす日常の中で、自分では説明できない感情がこの著書には心に響く言葉と示唆に富む世界があった。彼は言葉で語り書くことで自己の内面に生じた不条理な部分を、精神のカオスに陥ることなく秩序あるものに変えられたのであろうか。

著者の知見は音楽のみならず映画においてもみられる、B・ベルトルッチ、A・イニャリトゥ、大島渚、そして小津安二郎への偏愛。残りの時間を意識したのであろう、失われてしまったことへのノスタルジー。

〈この光景はもうどこにも存在しないのだという『非在』の感覚がどうしようもないほど郷愁を誘ってしまう〉〈ゆえにぼくは、郷愁の感覚こそ、芸術の最大のインスピレーションのひとつだと思うんです〉。そして〈ガンになったのも何か理由があるのだろうし、結果的にそれで亡くなってしまっても、それはそれで本来の人生だったんだ、と達観している部分もある〉。また〈そして死んだらお星様になるという素朴なファンタジーを、今のぼくは決して否定したくありません〉。死と向きあう覚悟とそのロマネスクな想いが胸を打つのである。

彼がもうこの世にいないことに呆然としながらも、この本を残してくれたことにありがとうと言いたい。寂しさと同時にシンとした気配に包まれ、次は私なのだとの気持ちにもなり、今の、つかのまの自分の生を噛みしめている。

現代の日本の音楽シーンを担っている一人、大友良英。著作『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』(筑摩書房)をひっぱり出して読んだ。題名の通り、著者の子供の頃からの音楽遍歴である。〈あまりにもプライベートな、恥ずかしくもある内容ですが、でも、ボクにとっての音楽は、いつでも個人的な記憶とごっちゃにあるものなんです〉。軽いタッチでユーモアもあり、味わい深いがその記憶が音楽への愛と深さが半端ではなくて、その時々の時代背景が鮮やかに見えてくる。それは彼が作り出すサウンドもドラマの劇伴作品(日本の朝に溶け込んだ朝ドラ「あまちゃん」等)も、大きな構えとひろがりが見え、ポップでディープな音楽遍歴が鮮やかに立ちあがってくるのだ。そこが彼のレアな立ち位置であり、ブレがない。文字通りあらゆる音を楽しむ彼の脳裡には、音は音楽は、瞬間に感光して、焼き付くものなのだろう。

坂本龍一氏の著書には亡くなる間際まで友人である大友さんに提供する音源を作っていたとあった。

【書評について】2022年10月から『サンデー毎日』の書評「遠回りの読書」を担当して、2025年4月20日号で18回目を迎えました。この度、広く皆様にお読み頂きたく、毎日新聞出版社のご厚意によって原稿を転載させて頂けることになりました。毎月1回の更新でnoteに「書評」として投稿致します。ぜひご覧ください。

(*紹介した本からの引用は〈 〉になっています)