映画『ノマドランド』の世界

映画『ノマドランド』は、社会から置き去りにされた、いや社会を置き去りにしたかのようなファーン(フランシス・マクドーマンド)と、彼女とすれ合う人たちを、クロエ・ジャオ監督は前作同様、カメラが撮らえる圧倒的で見事な自然の描写の中にその人間たちを放り込む。それゆえにか、そこで交わされるノマドたちの抑制された会話、営みは全てがあまりに詩的である。アマゾンの巨大倉庫すらも自然の砂漠のように見えてくる。

私は途中から、もしかして私が観ている、今スクリーンに映されているランドはこの世の世界ではない、あちら側の世界なのではないかと思った。それはファーンを一人で象徴的な自然の中に立たせる場面が多くて、その孤立の有り様が神がかったショットであり、会話、貧困、病、食、排泄などをリアルに撮ってはいるが、全体が何か大きなものに包まれていて、あまりにも絵画的で哲学的なものであったからだ。ノマドの世界の生態を描いてはいるが、この映画はもちろんドキュメントなどではなく、また映画館の席で映画のフィクションを愉しむものでもない。作り手の意思と文学的な作為が感じられるスクリーンに映し出されたものを私は観るのではなく、ただただ浴びていた。嫌いではない、むしろこの映画と私自身の距離感、関係性は好きである。