私の今夏の花火、白内障手術

厳しい暑さが続きますが、今夏は幸い自宅での仕事の作業が多いので、思いきって七月、七夕の日、十年間ずっと施術しなければと思っていた白内障の手術をした。

一か月前に血液検査、一週間前にコロナのPCR検査をして、まずは左眼、一泊二日である。横浜の総合病院にタクシーで朝9時に入院、病院内は感染症対策で、連れ合いは入院棟には入れずに、直ぐに一人で病室へ。病衣に着替えて、点滴を受ける。

午後1時に手術室へ、手術室は広くて最新で幾つも自動扉を通り、その度に、名前とどちらの眼か、を本人確認する。看護師さんが押す車椅子なのでスピード感があり、不思議な世界に入る、気持の昂りすらも感じる。
施術台はゆったりとした椅子であり、周りは最新の機材に囲まれている。担当の女医先生の挨拶があり、椅子を一番楽な体勢にセットして、点眼麻酔。私は眼に麻酔してメスが眼になんてことをイメージしていて、やはり怖いなと思っていたが、そんなアナログなことはなかった。

なにやら顔にテープが貼られて顔の動きを止めて、眼だけが露出しているようだ。
もう一度点眼麻酔をされると、眼には、まるで花火のような光がただ当たる。その中に黒い点が三つ無作為に動いている。「黒い点の動きを追わないで、漠然と光を見ててください」の声がかかる。ジッと見ていると、まるで万華鏡を回して見ているようだ…と思っていると、担当医の先生の声が聞こえてくる「Sさんの迎えの車椅子をお願いします」と、施術は終わったということだ。それから眼に水を流されてたようで、目を眼帯で顔半分くらい覆われて終わった。うーん施術台に座って15分経ったくらいの時間であったように思う。

映画とかドラマで手術室のシーンはよく見る。全身麻酔で施術される患者さんはオペの様子はわからないだろうが、眼の施術だったせいかわからないけど、私の想像よりも随分と手術室は綺麗で広く、患者に安心感とリラックスさせる設備になっていた。視覚的なことも患者にとっては重要なのだと思う。実際私の血圧は施術台に座ってから下りるまで正常に安定していた。

しかし、以前から白内障施術の間はあんな花火のような光の洪水の中で行われていたのだろうか、凄い発想だなと。

病室に戻ると1時間、安静にベッドに横になって過ごし、これまでだと家族が側に居るのだろうけれど、入院棟はともかく患者のみで、付き添いの人は一人も居なかった。何もかもを患者一人でやるのである。重病患者の場合はどうなっているのだろうか。感染症の予防である、この二年間はこのような体制なのであろう。看護師さんの数も少なくなっているとのこと、コロナ禍で総合病院は大変だったのだと思われた。

その日は一泊して翌朝、術後の検査をして眼帯を外して、午後帰宅した。片方の眼を眼帯で塞ぐのは、やはりストレスがかかり、病棟では歩くのに注意が必要だった。
二週間の期間を空けて、今度はもう片方の眼を同じ要領で手術する。
七月は今年は白内障の手術で全てである。

「本格的な老い」を前にして、これからは景色を眺めたり、本を読んだりするのにストレスがなく、クリアーな目の状態で生活していきたいが為であり、この時期が良い決断だったと思っている。

ラジオドラマ『あの日々たちよ〜詩劇としての』聴き逃し配信中!

私の書いた初めての脚本『あの日々たちよ〜詩劇としての』の放送も先日土曜(6月11日)NHK- FMシアターにて放送されました。お聴き頂いた人たち本当に有難うございました。

物語は、私の個人的な実体験を書いていると思われるかもしれませんが、当然、この脚本「あの日々たちよ」はフィクションです。私の頭の中で演劇というものを軸にして、現実と非現実の夢を、50年という時空を行き来して交差する「マジック・リアリズム」として書ければ良いなと念じ、拙いながらも作品として書き上げたものです。

西田敏行様を始め、全ての俳優の方の演技が素晴らしくて、私は放送を聴いていて、自分の書いたものがこんなにも生きた物語として立ち上がってきたことに驚きと悦びに包まれました。演者の方、音楽、構成のスタッフの人たちには感謝しかありません。

演劇という言葉が色んな職業に置き換えられても、それぞれの「あの日々たち」が成立する、普遍性を持っているものとして、信じて。

6月18日(土)までNHKのサイトとアプリらじる☆らじるで、「聴き逃し」配信中ですので、是非に聴いてくださいませ!NHK-FMシアターです。

ドキュメンタリー番組「やったぜ!じいちゃん」のナレーション

名古屋のCBCテレビで放送されるドキュメンタリー番組「やったぜ!じいちゃん」のナレーションを担当することになり、先日私は人間の命の在り様の映像を前にして、マイクに向かい静かに言葉を発し続けた。

名古屋にある制作会社の方の丁寧な心の籠ったオファーであり、私は以前の声ではないし、集中力の持続にも不安があったが、この人たちと一緒にこのドキュメントの制作に関わりたいと思った。

生まれて直ぐに脳性麻痺と診断され、20歳までは生きられないと宣言された人が74歳の今日まで、力いっぱい生きてこられた、それが常に家族と共にあることを追った人間ドキュメントである。

私は彼と同い年74歳である。ナレーションをしながら、生きるということは何なんだ、そしてこの彼と家族の愛おしい世界を観ながら、これから残された人生の一日一日を大切に、生きなければと教えられた。私たちの人生はまだまだ続くのである。

精一杯のナレーション作業であったが、そのもう一つ先のギリギリ、スレスレの試みでやらないとこの映像には対峙できないと思い、緊張したが、スタッフの皆さんのおかげで何とか拙いながらも乗りきれたと思う。帰りのタクシーの中では、清々しくも尊い時間が過ごせた思い、この歳になって、この様な仕事ができたことが嬉しく感謝の一日であった。

先ずは名古屋、中京圏の放送であるが全国の多くの皆さんにも観て欲しい、触れて欲しい、ある市井の人のリアルで温かいドキュメンタリー番組である。

2022年日本民間放送連盟賞テレビエンターテインメント部門最優秀賞を受賞致しました

*英語版;NHK WORLD JAPAN 2023年11月4日(土)9:10/15:10/21:10/翌3:10

SDGsミニドラマ「種をまく」が放送されます

NHK SDGsミニドラマ「種をまく Planting a Seed」が放送されることになりました。
2分間の静かな時間を、ぜひあじわってみてください。

NHK総合
5月20日(金)午後23時47分〜
5月22日(日)午前5時12分〜/午前11時17分〜
6月17日(金)午後23時47分〜
6月19日(日)午前5時12分〜/午前11時17分〜

*予定が変更になる場合もございます

NHK SDGs作品「種をまく」を撮影した

映画のことを話そう。

横浜の戸部の街の一画に「シネマノヴェチェント」という映写技師さんが運営されているミニシアターがある。
そこで企画された映画「12人の優しい日本人」の上映と監督の中原俊さんと私の二人トークイベントが先日催された。
今、住んでいる横浜の自宅から車で20分の所で私にはストレスにならない距離である。「12人の優しい日本人」は1991年公開であり、監督の中原さんに逢うのも30年ぶりで撮影時には話せなかったことも落ち着いて話ができると思い、映画館の支配人の心意気も感じて出かけた。
上映後も残ってくださったお客様も含めて、30年前の映画のことを、私が知っていること、知らなかったことを監督と話せたのは幸せな時間であった。
私が演劇から映画に舵を切った作品なのでその原点に立ち戻り、ここで監督と話しながら、映画全体の中身のことだけでなく、私の個人的に思い出深いこの映画スタッフの人たち、もう亡くなられた人、また年を経て、老い故にこの場に来られない愛おしい人のことをしきりに思い出していた。
心にとどまり、記憶として残っている人や物事はこの映画全体のことではなく、やはり個のものであった。全体を語るのでなく個のことを語るのが一番自分に正直なのだと思った。

場所が横浜のディープで不便な所なのに、懇意にしている出版関係の友人が二人連れで来てくださっていた。このイベントに私が出ることは、私のホームページをチェックしていないとわからないので、ホームページを見てくれて来てくださったことが本当に有り難いことであった。
そしてまた、ある人は映画と関係なく、私の書いたエッセイ『歌うように伝えたい』の本へのサインを望まれ、それが1年前の初刷りの刊行本だったので(現在は6刷)私は驚き、今日は映画のことだけでなくステキな二つの出会いが確認できて、この出逢いも含めた全てが「31年経った私の12人の優しい日本人」という映画が着地した豊かさであり、長い時間を経たこの映画の大切な、幸福な広がりがあったと感じ入った一日であった。

ラジオドラマに生きてみた。

先日、私の書いた脚本のドラマの収録があった。
私の作業としての役割はもう何もないのですが、紙の上に勝手に思うままに書き込んだ登場人物が、この日は俳優さん達の力で立ち上がり、命を吹き込まれる。その奇跡のような瞬間を信じ、そして感じたくて、スタジオの隅で息を殺して、聴き、眺めていた。
自分自身が俳優という生業で生きてきたのに、俳優さんたちの役へのアプローチが凄くて、恥ずかしながら胸が詰まって熱いものが込み上げて、素晴らしい時間を過ごし、このような経験できたことに感謝しかない収録の一日であった。
力のある素敵な俳優さん達がこの私の拙作に集結してくださり、スタッフさんたちと共に軽々と脚本というものを超えて、広がりと深みのある作品にしてくださった。

もうすぐこのラジオドラマの情報が解禁されますので、愉しみにお待ちくださいませ。

収録の翌日は春の嵐で天気は荒れていましたが、私の気持ちは、この歳になってまたひとつの新しい分野の仕事を成し遂げられたという、若い頃に壁を越える度に感じたような清々しいものであった。

NHK-FMシアター「あの日々たちよ〜詩劇としての」 6月11日(土)午後22時〜放送

book&writing「ラジオドラマを聞いてみよう」

春風が吹く

母屋の庭に植えていた山椒の木から、義妹が蕾を摘んで、少し良い肉を買い花山椒のしゃぶしゃぶを作ってくれた。私は生まれて初めて食し、その香りと、口に含むと何とも言えない風味で春の訪れを食卓でも満喫した。この暖かさだともう明日になると蕾が花となり、食べる期を失う一瞬の花山椒の夕食であった。ホタルイカの土鍋ご飯といい、家族での季節の食に舌鼓を打つ。

昨年から書いてきた作業が自分の手から離れ、最終段階に入って少し私の気持ちも落ち着いてきた。これからの作業が大変なのだろうが、早く情報解禁になり、皆さまにお知らせしたい気持ちでいっぱいです。

ただ世の中に平穏な日々が訪れますようにと祈り願う春の一日、一日である。

私の3月19日、身体の声を聞く。

3月19日、この日は私が病で倒れた日だ。
身体に少し不具合が残り人生につまずいた日である。突然日常を絶たれた失意と哀しみ、そして悔しさ。しかし、それらの感情と同時に生命には限りのあることが骨身に染みて、これからの残された私の生命を全て使い切って、小さな自分の可能性を信じて歩き続けようとした日でもある。

8年が経った。この日だけは外出はしないで、何も予定は入れず、家で読みたい本、何度も励まされ、癒やしてくれた本を再読し、音楽を聴いて過ごす一日と決めている。

今夜はNHKのラジオドラマ、FMシアターにて、脚本家の渡辺あやさんの作品『はるかぜ、氷をとく』が再放送される。このラジオドラマを聴いて、大切な一日を終えようと思う。

私たちの望むものは

生きる苦しさではなく 生きる喜びなのだ

私たちの望むものは

人が争い戦うことでなく 人が平穏な日常をおくること

                2022年3月 春

「3回目のワクチン接種」で思うこと。

3月1日、3回目のワクチン接種を受ける。前の2回は東京だったので築地の聖路加国際病院のワクチンセンターにて、多人数がシステム化され流れるように接種は終わった。
今回は引っ越した横浜で、近所の個人医院で受けた。昔からある医院である。予約の時間には10人くらいの人たち、女性の高齢者が多かった。私にとってはおそらく子供の時以来何回くらいあったろうか、靴を脱いで上がりスリッパを履くような医院である。しかし待合室は広く清潔感があった。
私は足の不具合があり、杖をついて上がると、皆さん高齢であるにもかかわらず席を譲ろうとしてくださった。有り難かったが躊躇していると、看護師さんが椅子を出してくださり、座って順番を待つことができたので「気を遣ってくださり有難うございます」と声にしてお礼を言った。皆さんも安堵なさったのか笑顔を返された。
直ぐに接種も終わり、待合室でマスクと各人距離を保ち10分くらい安静にしていると、隣のご老婦人が、「2回と言っていたのに3回目、これでは4回目なんてまた言われるかもね…」と少し笑いながら、私に囁くように言われた。私も「ですよね…」と苦笑いで応えた。この方はきっと家族から、またはテレビの情報等で3回目の接種に来られたのだろうが「何もかもご存知なのであろう」と思った。この感染症の対策についても。
急に外は曇り始め、皆さんと一緒にバスの時間表を確かめあって医院の前のバス停まで行った。お年寄りの皆さんは静かに穏やかで、帰り際、靴を履く私を待ってもいてくださった。
深刻な感染症の拡がりというシリアスな事態の日々の中で、私には人の温もりが感じられたワクチン接種の一日であった。その夜のニュースでは東京の効率化された大規模な接種会場が映されていた。そしてこの状況のなかで東京マラソンを実行するという…。

副作用なのか夜半にかけて少し肩の痛みを感じながら、この2年続く感染症が、withコロナなどでなく何とか早く治まって皆が普通の日常をおくれることを願い祈った。